2014年6月29日 聖霊降臨後第3主日 「愛の招き」

マタイによる福音書9章9〜13節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9:13)
この主イエスの御言葉を聞くたびに、私はルターが語る「義人にして同時に罪人」という言葉を思い起こします。これは、半分は義人(正しい人)で半分は罪人であるという意味ではありません。完全に義人であり、同時に完全に罪人であるという意味です。一見矛盾しているように思えますが、それがキリストに招かれた者、救いに招かれた者であるということなのです。

キリストによって招かれ、救われた者は正しい人、全くの義人です。そこには1パーセントの罪の余韻などはありません。しかし、尚、この世に歩む私たちは、罪を犯してしまう必然性の中にあります。罪とは無縁の世界に生きているのではないのです。そこに人間的な正しさの度合いというものはあるかもしれません。自分も罪を犯すけれど、あの人ほどではない。あの人のほうが罪は深い。そういう自分のものさしでしか測れないのが私たち人間の眼です。しかし、神様の目に映る罪人は、私たちのものさしでは測りようがないのです。人間の度合いがどうであろうと、神様のみ前にあって、神様の眼から見て、1パーセントの罪は全くの罪人なのです。

主は「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」に来られました。罪人が招かれるのです。先程も言いましたが、私たちは人間のものさしで、どれくらい自分が正しいとか、罪があるとかということは測れませんから、結局、正しい人、罪人とは誰を指すのかと、直接にあてはめることはできません。招く方こそが私たちを招かれるからであり、救いとは全く招く方から、すなわち神様から来る御業であるからです。

罪人こそが招かれる、ではこの「罪」とはいったい何かということです。それは、よく人間の悪事と混同されがちなのですが、聖書的な本来の意味から辿りますと、罪とは「的外れ」ということです。肝要な点から全くそれているということです。肝要な点、それがユダヤのファリサイ派と言った宗教家の人々から言えば、「律法」の教えということになり、その教えとは異なる生き方をしている人々が罪人であるというのが彼らの認識であります。すなわち、律法を守れない人、つまり神様の教え、掟を守れない人は、神様の救いから離れている人、神様から離れている人であると言うのです。

そして、今日の福音であります徴税人マタイの物語は、全くもってして的外れな状況の中で起こった出来事と言えるでしょう。徴税人、それは今日で言う税務署に勤めている人を想像されるかもしれませんが、当時のユダヤの人々から見る徴税人のイメージは現代の私たちの想像を遥かに超えることでしょう。税を払うということにおいては現代の私たちでも抵抗を覚えますし、増税となればなおさら反発の声があがるものです。その時、その反発の声は税務署に勤めている人ではなく、時の政治に向けられるものです。自分たちの暮らしがかかっていますから。

しかし、主イエスの時代、イスラエルの徴税人は人々からの嫌れ者であったと率直に言えるでしょう。当時のイスラエルはローマ帝国の属国でした。自分たちが払う税金の行き先はローマ帝国なのです。ローマ帝国は直接現地に役人を派遣して、徴税を行ったのではなく、その事務作業を地元の民間に委託しました。ですから、イスラエルにおいては、地元の同族であるユダヤ人がローマに支払う税金を徴税していたのです。しかも、徴税人は、あのザアカイの言葉からも分かるように、そのローマ帝国の権力を利用して、その徴税の金額をはぐらかし、不当な利益を上げて、自分の懐としていました。

人々はそのことを知っていました。だから、ユダヤの人々がローマ帝国に対する憎しみを抱いていたことはもちろんですが、自分たちの同族でありながら、そのローマの権力を利用して、自分たちを騙し、不当な利益を得ていた彼ら徴税人に対する憎しみは相当なものであったでしょう。それゆえに、彼らは罪人と同等に見なされていた。あんな不正なことをしている輩は、神様の救いから見放されていると。神様の律法を守って正しく生きていく者の道から外れた者、的外れな者であるという人々の認識があったことでしょう。

マタイはこの徴税人です。このマタイによる福音書を、直筆で書いた人がマタイであるという学説は有力ではありませんが、少なくとも言えることは、この福音書がマタイの共同体によって記された福音書であり、マタイの信仰体験から来ていることは間違いないということです。徴税人という的外れな者が、この福音書を書き起こしたと言えるのです。

マタイは主イエスとの出会いをこう書いています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(9:9)このたった一節の出来事です。この時、マタイの身に何が起こったのか、私たちはいろいろと想像するかもしれませんが、明らかに言えることは、あのザアカイとは状況が異なることと、「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とありますように、彼は徴税の仕事中であったということです。その最中での出来事でした。

今日の週報の表紙には、17世紀のオランダの画家ヘンドリック・テル・ブルッヘンが1621年に書いた「聖マタイの召喚」という作品が載せられています。同じく16世紀から17世紀のバロック時代で活躍したイタリアの画家ミケンラジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョが1599年から1600年に書いた「聖マタイの召命」という作品もよく知られているかと思いますが、この出来事の状況を事細かに描いている作品と言えます。主イエスとマタイの出会いは、神殿でもなく、会堂でもなく、はたまた山上の説教のように、主イエスの教えを聞きにきた群集たちとはまた違う状況にあり、彼は祈っていたわけでもないのです。作品に見られる通り、まさに徴税の最中だった、言うなれば罪の只中にあって、自ら主イエスを求めたわけでもないのです。作品の中で主イエスは手で徴税人を招いています。この中でどの人物がマタイなのかというのは様々に議論がなされていますが、(自分に指差している初老の男性とも、隣にいる主イエスと視点が合っていない若い男性とも言われていますが)その徴税の場面で彼に呼びかけるのです。「私に従いなさい」と。そうすると、徴税の最中であった彼は、すぐさま立ち上がって主イエスに従っていくというのです。

この立ち上がるという言葉ですが、これは「復活する」という意味で用いられる言葉なのです。まさにその的外れな歩みから、一転して、新しい歩みへと変えられた出来事。復活、その新しい命に生きるかの如く、彼は主イエスの呼びかけによって立ち上がり、主イエスに従っていくのです。主イエスのもたらす新しい命の中に彼は迎え入れられたということ、しかも主イエスは多くは語らないのです。悔い改めよとか、あなたの罪は赦されたとか。「従いなさい」。私と共に生きよというこの呼びかけ。非常に激しいこの呼びかけを、彼は全く的外れな場で、その心境の中でその声を聞いて、立ち上がったのです。

マタイの状況は特別なことでしょうか。人々から嫌われていた、軽蔑されていた。それは全く同情の余地がないと言ってもいいかもしれません。自業自得かもしれない。その視線を人々から浴びるようにして、毎日を生きなければならない者たち。そのことに思い悩んでいたか、それとも開き直っていたのか、聖書はマタイの心情を語りません。人々から嫌われようと、罪という暗闇の中にあろうと、マタイはその日常を歩んでいるのです。普段と変わりない一日です。主は彼のその日常にこそ、まなざしを向けられたのです。

私たちはマタイと全く同じ境遇の中で生きているわけではないでしょう。そのことが幸いか、不幸かと言えば、幸いと言えるかもしれません。しかし、私たちはどのような境遇にあろうと、彼と同じ日常の只中にあります。理想を思い浮かべますが、現実を生きています。人々からの厳しい視線を感じながら、歩まなくてはいけないとは他人事ではないのです。日常の中で、私たちはそれぞれに何かを抱えて、今を生きなければならないのです。この人生の途上で、あたかも普段と変わりようがない一日の中で、主との出会いがあるのです。その只中で神様からの呼びかけはあるのだということです。様々な思いを私たちは抱いて、日々の日常を生きていますが、本当に何がきっかけでこの礼拝に招かれるのか、教会を訪れて来るのかわかりません。様々にきっかけはありますが、やはりこれは神様の圧倒的な呼びかけに捕らえられたとしか言いようがない、強いて言えば奇跡としか言い様がないでしょう。それは私たちの想像を遥かに超えるほどに、神様は自由な方であるということ、時と場の主であるということです。私たちが描く神様の呼びかけにふさわしい「時と場」という縛りを超えて、主はあなたに呼びかけられるのです。今まさに、あなたに呼びかけておられるのです。

そして、マタイは主イエスを自分の家に招きました。そこには同じ徴税人や罪人も同席していました。ファリサイ派はもちろん、一般の人々との交流もなかったに等しいと言える彼が、彼ら以外に、客人を迎え入れたことなどあったでしょうか。家はくつろぎの場、もてなしの場であるのと同時に、自分自身の拠り所となる場、心の領域とも言えます。その領域にこの方を、呼びかける主を迎え入れたのです。

そこに居合わせたファリサイ派の人々は、その光景を異様に感じたのでしょう。なぜ徴税人、罪人たちなんかと食事をして、分かち合っているのか。彼らファリサイ派の人々は強いて言えば、信仰に生きている人々、彼らの日常は、信仰の日常なのです。真に真剣で、熱心な信仰生活を送っていました。しかし、その熱心な信仰の日常が、その世界に生きているのが当たり前だという自尊心にとって変わり、他の者を選別するのです。その選別の眼差しを、マタイのような徴税人としての生き方、日常の歩みは的外れそのものであるという思いとして、彼らに向けていたのでしょう。そんな世界に生きていた人を、主イエスはなぜ招かれるのか。彼らは理解できないのです。

そのファリサイ派の人々に主イエスは答えられました。「「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」。医者を必要とするのは病人である。全くもってその通りです。病人は医者を必要とするのです。病を治していただくために、医者に見てもらうのです。真に病から治りたいのだから、医者の前では全てのことを話します。

主イエスは、そのことを譬えて、罪の癒しを語っています。罪も癒されなければならないのです。罪を癒すために、主は来られたのです。私はあなたたちと共にいる。社会があなたたちのことを疎んじても、私だけはあなたたちの味方だ。そういうことを主イエスは彼らに伝えるために、一緒に食事の席についているわけではないのです。罪を癒されるために、完全に赦されるために、罪人が救われるために、ご自身もその罪の只中に、罪の真ん中におられるのです。彼らの生活そのものの中に共におられるのです。

ファリサイ派の人々は、マタイのような徴税人や罪人は、神様の招きにふさわしくない、遠く離れているところで、彼らは生きていると思っていたでしょう。彼らと比較して、自分たちこそが神様のみ前に正しく、救いに招かれるにふさわしい者であるという自覚もあったかと思います。それが彼らの信仰の熱心さであり、それ故に、彼らは神様の救い、その憐れみの御心を見失っていました。他の者と比較しての信仰の正しさという信仰の外形に囚われ、神様のみ前にあっての信仰の内実には生きていなかった。憐れみを求めておられる主のみ前に立ってはいなかったのです。その神様の救済、憐れみを求めておられる神様の救済について、学んできなさい。他の者との比較というところに立つのではなく、自分自身が主のみ前に立たちなさいと、主は彼らを、そのようにして導かれたのです。

この後、12人の弟子たちが主イエスによって選ばれますが、その中にこのマタイが入ります。それは徴税人のマタイとして記されているということです。主イエスに招かれて、従っていったマタイは、全くの別人になったのではないのです。徴税人のマタイとして生きた。罪人のマタイがそこにいるのです。しかし、彼の徴税人、罪人としての日常の中に、主が来られた。何か特別な思いの中で、特別な出来事の中でしか主は来られないという私たちの縛り、常識を超えて、主は自由に私たちを招かれるということです。マタイは、その声に聞き従い、常にその声は徴税人のこの私に呼びかけられているという招きに、自らの生涯を委ねて、キリストと共に生きていくのです。彼の共同体が記したこの福音書は、まさに徴税人を立ち上がらせた呼びかけの書であります。

使徒パウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です」と、テモテの手紙Ⅰの1章15節でこう言いました。そのまま受け入れるに値するというのです。私たちの行いとか価値観を超えて、それこそマタイのように、的外れのような只中にあっても、この主の呼びかけに答えればよいのです。罪人の中で最たる者、だからこそ、ただ主の憐れみを求めるということにほかなりません。主はその、私たちの祈りに答えてくださいます。

主は真に自由な方です。罪人を招かれる自由さに、主の御心が、私たちへの愛の招きがあります。尚、私たちはマタイと同じように、徴税人であるかもしれない。的外れな只中にあるのかもしれません。そんな日常の只中にあって、しかし、主は私たちの罪を癒される医者として、この世に来てくださいました。十字架という命をとして、私たちを癒されたのです。

罪人を招かれる主。人には言えない心の闇を背負いつつ、私たちの日常はいつもと変わりようがないかもしれません。けれど、主はそんな私たちの日常の傍らを通り過ぎるのです。「私に従いなさい」。これは命の御言葉です。私たちの日常は現実に打ちのめされて、苦しいけれど、罪の中にあっても、決して無意味な日常ではないのです。主の呼びかけは、わたしたちを生かしめるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。