2010年10月3日 聖霊降臨後第19主日 「質か量か」

説教:安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書17章1〜10節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


信仰を「質」と捉えるのか、それとも「量」として考えるのか。

「信仰を増してください」この場合は信仰を量と考えるのではないでしょうか。

「信仰を強めてください」この場合は信仰を質と考えるのではないでしょうか。

All or nothing と言う英語の言いかたがあります。

丸ごと受け入れるか、 全然受け入れないか、 どちらかでしかなく、 その中間は無い、という意味です。

さて、今日の聖書の箇所に入りましょう。

主イエス・キリストはその弟子たちに罪と闘う備えをさせておられる箇所です。

詳細に見ると、1節〜4節 5節〜6節 7節〜10節と3つに分ける事が出来ます。

17:01 「イエスは弟子たちに言われた。つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

初めの部分は、イエス・キリストの直接の弟子たちでさえも、罪の堕落に落ちる可能性がある、ということです。そうした誘惑に対して主は神のみ心を知らせ、常に武装させておられるので、そのような罪をもたらすものは「災いである」と述べています。

17:02 「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」

ましてや、その罪の誘惑者になる者は、あの石臼(いしうす)を首につけられ、海に投げこまれた方がましである、と記しています。

これは多分にパリサイ人を意識し、自分の尺度で人の罪を測たり、自分自身を義としたりすることを戒めています。神の尺度と人の尺度は違うということです。

17:03「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。

17:04 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

主イエス・キリストの弟子である私達は、自分一人でこの問題に対処する必要があるのではなく、一つの共同体、イエス・キリストにある共同体としてむかうべきなのです。私達はたとえ人の目には重い罪であっても、一度その人がその罪を神の前に告白し許しを乞うのであれば、それはゆるされる事を、共同体としての教会は示さなければなりません。しかし、その罪が認識されず、告白されないのであれば、悔い改めるまで、罪として断定される事も同時に示す必要があります。

人の尺度ではなく神の尺度である、ということです。1日に7度罪を犯し、7度悔い改めるなれ許せ、度々罪を重ねても、の意味です。

17:05 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

17:06 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

弟子たちは信仰を増して下さるように主に願っています。信仰は増すことが出来るようなものでしょうか。信仰は、あるか、ないか、この二つしかない、と主イエス・キリストは示しておられます。

17:07 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

17:08 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

17:09 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

信仰によってイエスと共に生き、共に働く者は、だからと言って、特別の報酬を獲得する権利を得る事は無い、ということです。自分を召した主への謙虚な態度、献身・奉仕が実を結ぶのは、その自分の行為に対して何の要求も出さないときです。

神から与えられた信仰を感謝の内に自分の身に受け、イエス・キリストにある共同体としての教会の働きが出来るよう祈りたい。

他人を個人的には許せない場合も、共同体としては、客観的に許すことが出来るのではないでしょうか。それでも、意固地に、許さないとするのは、傲慢です。共同体が許しているのだから、許せないが許そうと勤め、主の導きを切に祈るなかで、生きるのが信仰者でしょう。