2012年3月18日 四旬節第4主日 「永遠の命を得る」

ヨハネによる福音書3章13〜21節
説教: 高野 公雄 師

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

ヨハネによる福音書3章13〜21節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、イエスさまとニコデモとの問答の後半部分です。ニコデモという人は、3章1に、ファリサイ派の属する者、ユダヤ人たちの議員であったと紹介されています。つまり、ユダヤ人の国会である最高法院の議員七十人のひとりで、当時のユダヤ人社会の有力者です。そのニコデモが、人目をはばかって夜ひそかにイエスさまに会いにきます。教えを受けるためでしょう。イエスさまは彼に《はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》(3節)と教えを説きます。《するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか》(9~10節)。こういう会話の続きとして、きょうの福音は語られています。

ところで、二千年前のギリシア語原文には句読点もカギ括弧もなく、白文つまり返り点などの付いていない漢文と同じようにべた書きです。聖書学者が、白文のどこが文の切れ目か、どこが段落の切れ目か、また、どこが話者のセリフで、どこが著者の地の文か、と著者の思いを読み解いて、各国語に翻訳する元になる校訂本を作っているのですが、きょうの福音は解釈が分かれ、検討が続けられている個所です。私たちが用いている新共同訳聖書では16節で改行されてはいるものの、21節まで全部がイエスさまの言葉とされています。しかし、新改訳聖書とか岩波書店版などでは、イエスさまの言葉は15節で閉じられ、16~21節はカギ括弧の外に出されて、著者ヨハネがイエスさまの言葉の真意を解き明かす地の文とされています。「人の子」がイエスさまの自称なら、16節以下は地の文なのかも知れません。どちらを採るか、微妙です。

《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。

ここで、イエスさまはご自分の使命を、旧約聖書にある故事を引き合いに出して述べています。先ほど第一朗読で聞いた個所、民数記21章に書かれている出来事です。紀元前13世紀のことですが、イエスラエルの民はエジプトで塗炭の苦しみにあえぐ奴隷でした。彼らの嘆きの叫びを聞いた神は、モーセを指導者として送り、エジプトから脱出させます。イスラエルの人々は、エジプト人の奴隷から自由な身分へと解放されます。ところが、脱出した先は、荒れ野です。彼らは水にも食べ物にも不自由し始めます。そのとたんに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、エジプトにいた時の苦難も、そこから救い出された喜びも忘れて、目先の苦労からただ逃れたくて、彼らは「何のために自分たちをこんなところに引っ張り出したのだ」とモーセと神に食ってかかります。神は毒ヘビを送って民をいましめます。民はモーセに助けを求め、モーセは神にとりなします。すると、神はモーセに「青銅でヘビを造り、旗竿の先に掲げよ、ヘビに嚙まれた者がこれを見上げると救われる」と約束されました。

民は、空腹な自由人であるよりも、奴隷でもいいから旨いものを食いたいと言います。なんと卑しい根性なんだろうと思いますが、私たちも自分の思いを振り返ってみれば、本音は同じようなものではないでしょうか。旗竿に掲げられた青銅のヘビは、そういうげすな者、不信実な者をも見捨てず、なおも愛し続ける神の信実な心の現われです。この昔の出来事は、「人の子」つまりイエスさまの十字架に人間に対する神の究極の愛を見、信頼を持って十字架を仰ぐ者は皆、救われる、神の国に入る、永遠の命を得ることを前もって証ししていたのです。

ここで、もうひとつの点に目を向けたいと思います。《人の子も上げられねばならない》とは、イエスさまが十字架の木に架けられることを指しているのですが、その前に《天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない》という言葉があります。これはイエスさまが天に上げられて誉れを得たこと、高挙を意味しています。「上げる」という言葉は、物理的にものを持ち上げるという意味と、精神的に人格が高く評価されるという意味とを持っています。著者ヨハネは、二重の意味をもつ言葉を利用して、イエスさまが十字架に釘づけにされて高く上げられたことと、イエスさまが天に上げられて神の右の座を与えられたこととはひとつであるという理解を示しています。首を垂れて瀕死の十字架像の他に、しっかり顔を上げて、両手を大きく広げて、私たちに祝福を与えているような、私たちをみ許に招いているような十字架像があるのをご存じでしょう。それがヨハネが強調する十字架像です。イエスさまは人間の救いのために天から降って人となり、十字架上で救いのわざを完成して、再び神の許へと帰っていたお方である、とヨハネは言っているのです。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

これが福音中の福音と言われる有名なヨハネ3章16です。キリスト教とは何か、それを一言で表わすのがこの一節です。創世記22章に、神がアブラハムに一人息子のイサクを献げ物としてささげよとお命じになった記事がありますが、ここでは神自らが独り子を与えて、私たちを永遠の命へと招いてくださっている、と説かれています。十字架は人に対する神の愛の究極の姿です。イエスさまはモーセのような偉大な指導者であるどころか、全人類に対する神からの唯一無比の、最善の贈り物であり、いのちの言葉そのものだ、これが著者ヨハネの信仰です。

《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》。

この言葉は、前節の言い換えですが、新しい考え方をも含んでいます。それは、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」という言葉に如実に表われています。どういうことかと言いますと、どの宗教でも、「救い」とか「裁き」は、将来死んだ後で天国に入るとか地獄に落ちることと教えています。ところが著者ヨハネによりますと、神の御子イエスさまのことが宣べ伝えられている今この時、将来の裁きが今すでに行われるのだというのです。イエスさまを救い主と信じる者は今すでに救われ、私たちの有限な命において、神の永遠の命にあずかれるし、信じない者は救いのなさを手にして生きることになるというのです。このことを、ヨハネはさらに次のように言い直して述べています。

《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》。

私たちは、ものごとを判断するとき、何が神のみ心であるかまっさきに考えるでしょうか、それとも、そんなことは無視して、他人を蹴落としてでも、自分がしたいこと、自分が得をすることを第一に考えるでしょうか。神の愛、神の信実な心を自分のためと知り、それを喜びと感謝をもって受け入れる人は、つまり信じる人は救われます。物の見方、考え方が変わり、自分が変わります。人生が明るくなります。イエスさまの福音は、誰か他人が救われるか裁かれるかという問題ではありません。徹頭徹尾、自分が問題です。神の愛、イエスさまの恵みが自分に注がれていること、そこに自分の光と救いと命があると信じることが問題です。それに目が開かれること、気づくことがすべてです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン