2012年3月25日 四旬節第5主日 「イエスに神を見る」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節
説教: 高野 公雄 牧師

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

ヨハネによる福音書3章36b〜50節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

ヨハネ福音書は、前半と後半の二つに大きく分けることができます。前半では、イエスさまが人々の間で語った言葉、行った奇跡的な癒しのわざが語られ、後半ではイエスさまの苦難と死、そして復活して弟子たちに現われ聖霊を与えることが語られます。きょう読んだのは12章の最後の部分ですが、これは福音書の前半を締めくくる部分であって、これが人々の間で話をする最後の機会となります。13章からはもはや人々への語りかけは無くなります。

きょうの福音は二つのパラグラフを含む長い個所なので、最初のパラグラフに焦点を絞って見て行きたいと思います。

《イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった》。

きょうの福音の、この始めの言葉は、物語の前半を締めくくる言葉です。イエスさまはこれらの言葉を最後に、地上での教えと行ないを終えて人びとの前から消え去る、と言っているのです。12章までに書かれた人々の間でのイエスさまの公の活動、福音の宣教にもかかわらず、人びとは「イエスを信じなかった」のです。そのことが13章以降に記される、イエスさまが十字架につけられ、苦しみを受けることへと繋がります。

イエスさまの時代にも弟子たちの時代にも、同胞のユダヤ人たちの間に、信じる人も生まれましたが、ほとんどの人々はイエスさまを信じませんでした。殉教死する弟子たちも出ました。そのことが、弟子たちが周辺の国々に出て行って宣教活動を始めるきっかけにもなったのです。そこでも、信じる人々も生まれましたが、ほとんどの人々は信じませんでした。そこでも殉教死する人がでました。信じる人々が少ないのは、日本だけのことではないのです。

では、人びとがイエスさまを信じないのは、なぜでしょうか。それは、イエスさまの福音が理解されなかったからです。聖書が証しする神・救い主が、人びとが期待する神さま像・救い主像と違うからです。イエスさま当時のことで言えば、人びとがメシア・救い主に期待することは、昔のダビデ王が力でもって外敵を追い払ったように、強大な支配者ローマ帝国をユダヤから追い払い、人びとを抑圧する悪い支配者たちを駆逐することでした。また、病気やけがや不和など人々を悩み苦しめる悪からすぐに解放することでした。

しかし、イエスさまを通して神がなさろうとしたことは、そうした人々の悩み苦しみに対する対症療法ではなくて、それを根もとから癒そうとする根治療法でした。イエスさまは重荷を負って労苦し、救いを求める人に対症療法的に癒しを与えることもありましたが、それはイエスさまがなさろうとすることの「しるし」であって、それは人々の中に信仰を惹き起こすための行いでした。イエスさまは本来は、悩む人・苦しむ人と共に歩む中で、その悩み・苦しみを共に担い、そのことを通して、私たちもまたそれに習うべき愛をお示しになり、またそのことを通して、抑圧者の側にも抑圧される側にもある愛の欠如・罪を示しつつ、イエスさま自らがその罪を身代わりに背負って、十字架につき、自らの命をもって私たちの罪責をあがなう、そういう仕方で私たちを救おうとなさったのです。

人々は、悩み・苦しみを共に担うような、まだるっこいやり方は、望みませんでした。また、自分たちの内なる罪を認めませんでした。人々はイエスさまを役立たずと思って捨てました。そして十字架につけました。そこに人々の罪が現われています。イエスさまはその人々の罪を身代わりに引き受けて十字架につきました。イエスさまは人々にご自分の命を与えました。それが人々を救うイエスさまの愛の極限の姿です。こうしてイエスさまは、ひとりをも漏らさず、万人を救おうとなさる神の愛と真実の心を示したのです。

《預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」》。

人々は、自分たちが見捨てたイエスさまの十字架の死を見て、それを神の愛と真実の心の究極的な現われと知ったでしょうか。いや、むしろ、ただただ惨めな男の死にざまを見ただけです。預言者イザヤがこう嘆くのも無理ありません。イエスさまを救い主と信じる者は、ほんとうに少数にとどまります。

この言葉は、イザヤ52章13~53章12は「苦難の僕」をうたう詩の中の一節、53章1からの引用です。この「苦難の僕」の歌は、イエスさまの無残な姿の死の意味を解き明かす預言のことばとして有名な個所です。

次に、ヨハネはイザヤのことばをもうひとつ引用します。《神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない》。これは、イザヤ6章10の逐語的な引用ではなく、自由に敷衍した引用のため、引用元とは異なります。人々の心は罪に汚れているために、イエスさまの言葉と行いを見聞きしても、そこに神の真実の愛が体現されていることを見ぬくことができません。イエスさまは神の子であり、私たちの救い主であることを信じることができません。しかし、本当は、このイエスさまの言葉と行いを通してのみ、私たちは真の神のみ心を知ることができるのです。

《イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである》。

イザヤは「苦難の僕」の惨めな姿の中に、人びとの罪を一身に負って人々をあがなう救い主の栄光を見た、とヨハネは書いています。私たちはヨハネ福音書を終わりまで読んで、十字架の先に復活があることを知っています。イザヤの時代の人々よりも、イエスさまの時代の人々よりも、私たちはだんぜん有利な立場にいます。ヨハネはこの言葉を通して、私たちに、こう問いかけているのです。「あなたたちは、イエスさまの言葉と行いにおいて、とくにも十字架において、神の私たちへの愛と真実の心が示されていることを見ることができますか。イエスさまを神が遣わした私たちの救い主と信じますか」と。

《とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》。

きょうの福音の初めに「彼らはイエスを信じなかった」とあったように、イエスさまを神の子・救い主と信じる人は少なかった。イエスさまは自分の期待する像とは違うから役に立たないと思う人が多数を占めていたことでしょう。けれども、信じる人の中にもユダヤ会堂からの破門を恐れて、信仰を隠していた者も少なからずいました。ヨハネが福音書を書いた時期には、ユダヤ教からキリスト信仰を排除することが正式に決まって、キリストの名を唱える者は破門されることになりました。ユダヤ人であることとユダヤ教徒であることは一つでしたから、社会的地位のあった人は、キリスト信仰をひた隠しに隠したことでしょう。

日本にもそういう時代がありました。秀吉の切支丹禁制以来の長い時代、そして第二次世界大戦下で「天皇とキリストとどっちが偉いか」と問い詰められた時代です。そういう状況下で信仰を公に言い表すことができる力を恵まれた人は多くはないでしょう。たとえ踏み絵を踏んでも、キリストを捨てますと宣誓書を書いたとしても、人の弱さを思いやることのできるイエスさまは、きっと赦してくれると思います。ヨハネは転ぶ弱さを非難しようとしているのではありません。

ここで、私たちが立ち止まらなければならないのは、《彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである》という指摘です。社会的な制裁を恐れることは、人の弱さであって、仕方がないとしても、私たちは心の奥底で神の意思を第一とするという信仰を失っていないか、世の大勢に迎合しきっていないかと自らを省みることは必要です。私たちの立ち帰るべき本当の故郷を忘れないように、ヨハネの言葉を深く心に留めたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン