2014年6月15日 三位一体主日 「疑いに先立って」

マタイによる福音書28章16〜20節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

遠藤周作の小説「沈黙」の中に、キチジローという青年が登場します。彼は、ポルトガルから命懸けで日本に潜入したロドリゴ神父と船の中で出会い、ロドリゴたちを五島列島に住む隠れキリシタンの村に案内します。キチジローはこの村のクリスチャンですが、事あるごとにクリスチャンであることを隠し、簡単に葉教することを誓ったり、その度に赦しを乞うたりしてロドリゴたちを困らせます。挙句の果てには、ロドリゴを裏切って、役人に彼の所在をばらしてしまいます。その後もキチジローは捕まったロドリゴを訪ねては役人に追い返され、そんな彼のことをロドリゴは軽蔑します。結局このロドリゴも踏み絵を踏んで、棄教することを受け入れるのですが、彼の下にまたしてもキチジローが赦しを求めて訪ねます。この時、キチジローの顔を通してイエスキリストがロドリゴに語るのです。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」最後にロドリゴはキチジローを赦すのです。

小説の中で彼は弱く愚かで、恥知らずな、情けない人間を象徴するかのように描かれているかも知れません。しかし、彼の生き様を通して、それが真実の私、裸の私であるということに気づかされます。私自身は大学生の時にこの小説を手にとって読み、このキチジローという人間の生き様にひとつの軽蔑を覚えつつも、決してそれは他人事ではなく、裸の自分というものにも気づかされました。彼は不信仰と言えば、不信仰な生き様だったのかも知れません。けれども、彼は何度も何度も赦しを乞うて、恥を顧みず、しつこくロドリゴたちにまとわりつき、神様との結びつきを求めるのです。ロドリゴの元を離れて、きっぱりと信仰を捨てて、生きていこうとはしません。迷いに迷い、戸惑う彼の姿、疑いとの葛藤に生きた彼の苦しみと共にキリストがそこにおられることを伝えているように思えます。

さて、今日与えられた福音であるマタイによる福音書28章は、主イエスが弟子たちを世界中の国々に派遣する大宣教命令の箇所であります。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」(28:16-17)出来事をさらっと読んでしまいますが、マタイ福音書では、この時初めて弟子たちは復活の主と出会ったのです。婦人たちの主の復活の証言を彼ら弟子たちがどのように受け止めたのかはわかりません。場面は一気にガリラヤへと変わるのです。しかし、主イエスの弟子たちに対する思いが前の10節でこのように語られています。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」主イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟」と、親近感をもって呼んでくれました。それは主イエスの十字架のもとから逃げ去り、主イエスのことを否認した彼らに対する赦しが、ここで既に語られているのです。不安に駆られ、逃げ出してしまう彼らの弱さ、情けなさ、自分の元から離れさってしまおうとも、主イエスは彼らのことを忘れることはなく、自分の兄弟として、友として、愛をもってして彼らと再び会うことを約束されるのです。

弟子たちは、彼らの故郷であり、生活の営みの場であるガリラヤで復活の主と出会いました。弟子たちはこのガリラヤで主イエスと出会い、主イエスの福音に心を打たれて、弟子として迎えられ、主イエスに従ってきました。また、今、彼らが登っているこの山の名称は分かりませんが、彼らは山上で説教(マタイ5章~7章)をする主イエスの姿をも思い起こしているでしょう。「心の貧しい人々は、幸いである。」から始まる、あの山上の説教を聞きに集まった人たちと弟子たちは、この主の慰めと希望に満ちた神の御言葉にどれほど励まされたでしょうか。律法の完成者である主イエスの説教の中に、神様の絶えざる愛と慈しみを覚えたことでしょう。復活の主は、今まさに、あの時の弟子たちに神の愛と慈しみを語るようにして、彼らと向き合ってくださっているのです。このガリラヤは主イエスとの最初の出会いの場であり、信仰の原点に立ち返るところなのです。この六本木ルーテル教会を訪ね、今この教会の礼拝に与っている私たちにとっては、ここが私たちのガリラヤなのです。

しかし、尚ここに「疑う者」がいたということを福音書は記します。疑う者と聞くと私たちはあの疑い深いトマスのことをすぐに思い起こすでしょう。確かに彼は疑っていたかのかもしれません。けれど、原文のギリシャ語では、ここは複数形になっています。「疑う者」がここに何人いたのかは分かりませんし、11人全員がそうであったかも知れませんから、トマスだけに当てはめられることでもないでしょう。むしろ、特定の誰かというよりは、ここで必然的に「疑う」ということが弟子たちの間で起こっているのではないでしょうか。

そして、この「疑う」という言葉は、一概に不信仰とか拒絶、拒否ということを表してはいません。戸惑いであります。心が右往左往している状態、信じようとも信じきれない状態を表しているのです。主にひれ伏しながらも(礼拝に招かれていても)、どこか心の中では別の思いに駆られることがあります。心配事や悩み事が迫っている状況ならば尚更でしょう。本当に主が助けてくれるのか、本当に信じて委ねることができるのか。不安になって、心がひとつの方向に定まらないのです。

あのキチジローも、心が定まらずに、常に不安に駆られています。迫害の恐怖に苦しみ、何回も踏み絵を踏むのです。でも、主との結びつきを捨てないのです。何回も何回も赦しを乞うのです。どんなに情けなくても、弱々しくとも、恥をかこうとも。信じきれるかと言えば、信じきれない私たちの姿があります。疑ってしまい、誘惑に負けてしまい、逃げたくなることがたくさんあります。それではだめだ、そうであってはならない、信仰とはひたすら主に委ねて、信頼することだと分かっていても、それでも私たちは何回も何回も主のもとを離れてしまうということを経験します。湖の上を歩いていたあのペトロは、途中で強い風に気がついて恐くなり、主イエスを疑って、湖に溺れてしまいます。また、彼が主イエスに信仰告白をしたときも、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)と、主にひれ伏ししつつも、神様のことを第1に信頼できない彼の姿があるのです。本当は、神のことではなく、人間のこと、自分のことを第1としてしまうのが私たちです。だから「しかし、疑う者もいた。」これは主のまなざしなのです。主は私たちの疑い、戸惑い、そこから来る弱さ、脆さ、情けなさをご存知なのです。

主イエスご自身も、人間としての弱さ、脆さに生きた人でした。ゲツセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:36)と神様に祈り、十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と、十字架という不条理に最後まで苦しみ抜き、そして父なる神様を疑ったのです。しかし、神様の御心は、この疑いに先立って、真の恵みを私たちにもたらすのです。主は死の淵から復活し、死という不条理の終焉を打ち破られ、永遠の命に至る道を私たちに開かれていったのです。

疑う者、戸惑いの中にある弟子たちに、主は近づいて行かれます。主の方から来てくださるというのです。主イエスを疑い、嵐の海に投げ出されて、溺れそうになったペトロに、主イエスは自ら近づかれ、手を差し伸ばして彼を救ってくださったように、この方が、私たちの疑いの中に入ってきてくれるということ、右往左往し、心が定まらない私たちの苦しみの中におられるということです。私たちと同じ苦しみのところにたち、そこから私たちを遣わしていくのです。この日常に、社会に、そして宣教へと。

主イエスは、疑いのままに、彼らの疑いに先立って、彼らを遣わしていきます。彼らが何か宣教の奥義を身につけて、マニュアルを携えて、行くのではないのです。むしろ、何もないところからの宣教の始まり、それどころか、先の不安を抱えて、そこからの宣教の開始です。でも、宣教は私たちの業ではなく、神様の業です。父と子と聖霊の名によって行われ、私たちはこの三位一体の名によって遣わされ、この名によって、洗礼を施し、神様の恵みをすべての人に宣べ伝えていくのです。この主の命令は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束によって、確かなものとなっているのです。

弟子たちやキチジローのように、私たちは信仰の揺さぶりを経験せざる負えません。逃げたり、裏切ったりします。弱く、情けない姿を晒してばかりの、人生を歩まなくてならない時がある、いやその連続かもしれません。主はそんな私たちと共にいる、共に生きようと約束してくださりました。私たちに疑いがあり、先の道が定まらずとも、主は私たちを用いていかれます。主の名によって、私たちは赦され、立ち上がって、新しい道を歩んでいくのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。