2012年6月24日 聖霊降臨後第4主日 「安息日について」

マルコによる福音書2章23〜28節
高野 公雄 牧師

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23〜28節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

きょうの福音は、「安息日に麦の穂を摘む」と小見出しが付いた個所です。マタイ12章とルカ6章にも並行する物語が載っています。

《ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った》。

麦畑を通っているときに、弟子たちが麦の穂を摘みました。これは些細なことであって、問題とするような行為とも思えません。しかし、ファリサイ派の人々はそれを見咎めて、イエスさまに「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と抗議をします。ユダヤ人にとって、安息日の掟を守ることは、それほどに大事なことと考えられていたのです。

安息日の掟については、きょうの第一朗読で聞きました。

《安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである》(申命記5章12~15)。

週の七日目つまり土曜日は安息を守るべき日である。神はその民の惨状を憐れみ、エジプトで奴隷であったあなたがたを解放してくださった。土曜日はこのことを覚えて仕事を休み、神と交流する日とせよ。そうすれば、息子と娘、男女の奴隷、家畜、外国人寄留者たちに休息を与えることができる。これが、安息日の掟です。

出エジプト記には、安息日について別の説明が書かれています。

《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである》(20章8~11)。

ここでは、土曜の安息を神が天地を創造したあと、7日目には被造物たちを祝福し共に憩われたことが安息日の定めの根拠とされています。創世記にこう記されています。

《第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された》(創世記2章2~3)。

どちらの記事によっても、安息日はユダヤ人にとって創造主にして救い主である神を覚え、感謝と讃美を献げる祝いの日なのです。この日は、町々村々にあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に集い、神を礼拝する聖日として定着しました。

安息日の掟は、以上のような内容なのですが、ユダヤ人は国を失ったり、主権を奪われたりする歴史を繰り返す中で、民族の独自性を守るために、宗教儀礼の中でもとくに安息日・割礼・食物禁忌規定を守ることを重要視するようになりました。そして、ついに熱烈な愛国主義者が、安息日律法を守るために、敵と戦うことを拒否し、死を賭すという「安息日の惨劇」が起きるにいたりました。これは、旧約聖書続編のマカバイ記一の2章に出ています。

ともかく、ユダヤ教では、安息日の規定は守るべきものとして強調されていました。ユダヤ教は「信じる者は救われる」とは教えません。神の定めた律法を守ることを教えているのです。安息日に仕事をしないことの具体例として聖書に書かれていることは、耕さない、刈り入れない、火を焚かないなどわずかです。しかし、律法を守ることを真剣に考えていけば、何をすべきか、何をすべきでないかをもっと細かに規定することが必要になります。それを考え決めていくのが律法学者たちです。いくつか学派がありましたが、その中で最有力になっていったのが、ファリサイ派です。

今日でも厳格に安息日の教えを守っている人は、食事のための煮炊きをしない、電話に出ない、車を運転しない、テレビをみない、エレベーターに乗らない、命に別状がないかぎり医者にかからないなど、一切の労働をしないことを守っているそうです。安息日は家族団欒の日となり、シナゴーグへ行ってお祈りをし、また自宅でも安息日を祝うのです。

このような次第で、厳格に戒律を守るファリサイ派から見れば、イエスさまの弟子たちの行ったことは、麦の収穫という、禁じられた労働をしたことになります。ルカ福音6章1によると、弟子たちは摘んだ穂を手でもみました。これも脱穀という禁じられた労働になります。

《イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」》。

麦の穂を摘むことは、それが安息日でなければ、律法に照らしても何の問題もないことでした。

《隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない》(申命記23章25~26)。また、《穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない》(レビ記19章9~10)。

このように、律法そのものは、旅人や貧しい人への配慮といたわりに満ちたものなのです。

でも、イエスさまは、このような聖句を引いて麦の穂を摘むことの良し悪しを論じるのでなく、ダビデの例を引いて、緊急(ここでは空腹)の場合には、例外として律法違反が許されることを指摘することで答えています。これでは議論はかみ合いませんが、イエスさまはそもそも律法とは何かという根本問題を論じたいのです。

余談ですが、この個所には「説教者への慰め」が含まれています。ダビデに聖別されたパンを与えた祭司の名は、サムエル記上21章1~6によりますと、アビアタルではなくて、アヒメレクです。聖書にさえこのような間違いが含まれていることは、自分の勘違いとか知識の乏しさに悩む私にとっての慰めです。

イエスさまはさらに言葉を続けます。

《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある》。

先に見たとおり、もともとの安息日の定めは、神の救いの恵みを強調するものです。そして、人道的な意味もありました。「安息日は人のために定められた」のです。あなたがたは安息日の掟の適用にとらわれて、本当に大切なこと、安息日の定めの本質を見失っている。あなたがたは本末を転倒し、「木を見て森を見ず」の過ちを犯している。神は一方的な恵みによってイスラエル人をあがない、奴隷労働から解放してくださって、人としての尊厳を取り戻させてくださった。この日はそのことを覚えて喜び祝う日だ。あれをするな、これをするなと人間の側の行いばかりに目を向けて、神の無償の愛を受け取るという安息日の一番大事なことを忘れていないか。こうイエスさまは言っておられるのです。

キリスト教会はユダヤ教の安息日(土曜日)を廃して、イエスさまが十字架の死から復活された週の初めの日(日曜日)を「聖日」「主の日」として祝うようになりました。曜日が一日移動しても、この日を守る精神は変わりません。教会はこの日の意義をしっかりと保っていなければなりません。

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》(マタイ11章28~30)。

安息日の主イエスさまの、このような招きに応えて、私たちは教会に集い、礼拝をいたします。私たちの礼拝が、この自覚に立って、神からの安らぎを得られるものとなり、この安らぎを多くの人と分かち合うものとなるよう、真の礼拝を共に作り上げていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン