2012年7月8日 聖霊降臨後第6主日 「悪霊を追い出す」

マルコによる福音書3章20〜30節

高野 公雄 牧師

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

マルコによる福音書3章20〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった》

きょうの福音は、大勢の弟子たちの中から側近におく弟子として十二人を選んだという記事に続きます。家に帰られたのは、十二人と共に過ごして、親しく教えようとなさったのではないでしょうか。ところが、群衆が押しよせて来て、「一同は食事をする暇もないほど」のありさまでした。

イエスさまは人々と親しく接して、言葉と行いをとおして神さまの人を愛する真実の思いを伝えました。しかし、生前のイエスさまは、自分が誰であるかを自らはっきりと言いあらわすことは滅多になく、人々の受け取り方に任せておられたようです。イエスさまは「救い主」として世に来られたとしても、「救い主」として救いのわざは十字架の死と復活によって完成するのであって、この完成の仕方を見ずして生前のイエスさま、途上にあるイエスさまを先取りして「救い主」と信じることは、「救い主」についての正しい理解に基づくものではなく、必ず誤解を生むことになったのです。

ところで、イエスさまの許に大勢の人々が集まりましたが、皆が皆、イエスさまを慕って集まったわけではありません。中には、イエスさまに敵対する人々もいました。きょうの福音は、そのうちの二つのグループについて語っています。

《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。》

ここに、身内の人たちと律法学者たちという二つのグループが書かれています。イエスさまのことを正しく洞察できる人がいるとすれば、真っ先に思い浮かぶのが、生身のイエスさまを良く知る身内の人と、聖書に精通しているはずの律法学者ではないでしょうか。しかし、現実はそうはなりませんでした。

イエスさまの身内の人たちは「あの男は気が変になっている」という評判を聞いて、自分たちもそう思って、イエスさまを「取り押さえに来た」のです。また、律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っていました。ベルゼブルとはバレスチナの先住民族の信じる異教の神の名前です。それをユダヤ人は「悪霊の頭」つまりサタン、悪魔を指す言葉として使っていました。

当時、人が病気や障がいを負うのは、悪霊の仕業と考えられていました。悪霊は30節では「汚れた霊」とも呼ばれています。イエスさまは霊能者、奇跡による癒し手として評判となり、人々は病気や障がいのある人たちを伴って押し寄せていました。イエスさまは悪霊を追い払う人、と広く認められていたのです。

そういうイエスさまに対して、律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、また「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたというのです。これは、これまでのイエスさまの言行を慎重に見守ってきた律法学者たちがユダヤの都エルサレムの権威をもってガリラヤ地方に下って来て、イエスさまに有罪宣告をする彼らの公式見解です。イエスさまはそれに対して、二つのたとえをもってご自分が誰であるかを示します。

《そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」》。

国でも家でも会社でも教会でも、内輪もめしていれば、早晩、存続の危機に陥るでしょう。サタンの王国も同じです。もしイエスさまがサタンの力によって悪霊どもを追い出しているとするなら、それはサタンの王国が内部分裂を起こしていることになりますが、ありえないことです。イエスさまが悪霊どもを追い出しているなら、イエスさまがサタンに仕える者ではありえません。最初のたとえは、こう言っています。

《また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ》。

病気や障がいのある人たちは悪霊どもに取りつかれているということは、彼らは悪霊どもに人さらいされている、または捕虜となって支配されている状態だということです。二番目のたとえは、彼らの救出を、サタンの王国に押し入って、捕虜になっている人々を解放する救出劇として描いています。サタンの王国に押し入って「家財道具を奪い取る」すなわち人質の解放に成功するためには、悪霊どもにとどまらず、悪霊の頭である強い人つまりサタン自身を無力にしなければなりません。このたとえも、イエスさまはサタンの力を借りているどころか、反対にサタンを縛り上げる方であることを主張しています。

このたとえは、旧約聖書が伝える、エジプトでの隷属からの救出、バビロンでの虜囚からの解放という神の力ある恵みのみわざを思い出せます。人の隷属状態からの神による解放ということは、イエスさまの活動が、病気や障がいのある人たちに限られず、すべての悩む者、苦しむ者に希望と慰めと喜びをもたらすものであり、私たち一人ひとりに関わるものであったことに気づかされます。

このように二つのたとえで律法学者たちの見方を退けたあと、イエスさまは、この議論を締めくくる言葉を発します。

《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。

「はっきり言っておく」は、原文を直訳すると「アーメン。わたしはあなたがたに言う」という言葉です。以下に言われることは、イエスさまの大事な言葉であって、教会に属する人々の信仰と生活の規範となることを意味しています。二つのことが言われています。一つには、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」であり、二つには、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」です。当然のことですが、一番目の言葉が「主」たる言葉であって、二番目の言葉は「従」の言葉です。

罪も冒涜も一切が人間には赦される。これはイエスさまのみが口にすることのできる言葉です。そしてイエスさまから発せられたものとしてのみ、理解でき受け入れることのできる言葉です。神の律法に違反する罪は世にはびこり、人に不幸をもたらしています。違反行為はけっして簡単に見逃して良いことではありません。だからこそ、世には罪の責任転嫁と自己正当化もまたはびこるのでしょう。そのさまは、きょうの旧約聖書、創世記3章が鮮やかに描いています。これこそ、罪を罪として認めず、罪の連鎖から抜け出ることのできない、赦され難い状況に陥っている私たちの真の姿です。このような私たちの姿が、罪に捕らわれている、悪魔の支配に服している者として描かれているのです。イエスさまは、罪の鎖に繋がれた私たちを解放するために、私たちの犯した罪を赦して私たちを立ち直らせるために、私たちを新たに生まれ返らせるために、世に来て救いのわざをなし遂げてくださいました。ご自身の十字架の死によって私たちの罪をあがなってくださいました。この方のゆえにこそ、すべての罪は赦されるのです。イエスさまが、唯一の救い主であり、罪のあがない主です。

ペトロはこう説教しています。《この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです》(使徒言行録4章11~12)。また、こういう言葉もあります。《イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」》(ヨハネ14章6)。また、こうも記されています。《神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました》(Ⅰテモテ2章5~6)。

責任転嫁、自己正当化、自己愛に捕らわれた私たちを解き放ち、神と隣人に対して開かれた生き方へと変革させるのは、イエスさまの神的な救いの力によります。このイエスさまを悪霊の頭と言って敢えて拒み続ける者は、イエスさまのあがないの功徳にあずかることはできません。

きょうの福音を深く心に留めて、いったいイエスさまは私にとって何者であるのか理解を深める。これこそが、私たちの最優先の務めです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン