2014年8月17日 聖霊降臨後第10主日 「何物にも代え難い尊い宝」

マタイによる福音書13章44〜52節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先々週、先週と続いて、本日もマタイによる福音書から、天の国のたとえについて、御言葉を聞いてまいりましょう。繰り返しますが、主イエスがこの天の国のたとえを話された場所は、こういった礼拝堂、会堂ではなく、湖に浮かぶ船の上でした。大勢の群衆が、主イエスの下に集まってきたので、足場はなく、全ての群衆の目に付く場所をお選びになったのでしょう。この時既に、主イエスはファリサイ派と言った宗教権力者から命を狙われていました。この譬え話の背景には、主イエスの十字架への歩みが既に描かれているのです。

天の国について、主イエスは多くの譬えを用いて語られました。その譬え話の舞台は、集まった群衆の日常生活そのものであり、私たちの日常です。主イエスは特別難しいことを言っているわけでもなく、また別次元の神秘的な話をしているわけでもないのです。ですから、この天の国ということも、それは何か死後の世界とか、別次元の領域を指しているとかそういうことではありませんし、ある特定の時や場所を指すのでもありません。天の国とは、神様のご支配であり、愛のご支配です。神の愛そのものと言ってもいいかもしれない。その神の愛は、神の御子でありながら、真に人間の姿となって今、この譬え話をされている主イエスキリストご自身を通して示されているのであり、天の国は主イエスキリストご自身を通して、確かに私たちに示されているのです。

さて、神の愛であるこの天の国についての本日の譬え話には、3つのお話が記されています。その書き出しは全て、「天の国は次のようにたとえられる。」とありますから、天の国とはある特別なものを指しているわけではありません。それは一つ目の話に出てくる「隠された宝」でもなく、2つめの話に出てくる「高価な真珠」そのものではないということです。「天の国は次のようにたとえられる。」すなわち、このお話に出てくる出来事そのものであります。天の国とは全くもってして動的なものであり、一つの働きであるということなのです。

一つ目と2つめのお話に出てくる隠された宝、高価な真珠。高価な真珠とは非常に貴重な真珠であるということですが、これらはそれぞれ、宝を見つけた人、良い真珠を探していた商人が「自分の持ち物をすっかり売り払ってでも」手に入れたいものであり、現に彼らはそうしたのです。すっかり売り払うということは、全財産を注ぎ込むということです。それほどまでに手に入れたい、ありがたいものであったというのです。宝を見つけた人の喜びの大きさがそこに示されているでしょうし、商人も同じ気持ちであったかと思います。

自分の全財産を注ぎ込んででも手に入れたい物とは何でしょうか。自分の全財産以上に価値のあるものって何でしょうか。人生の中でそんなものに出会うことってありますか。決してないとは言えないでしょうけれど、人生の中で一度あるかないかです。それも限りなくないほうに近いでしょう。もしかしたら、宝くじの一番くじを思い浮かべるかもしれません。一番くじの価値(値段)と自分の全財産を比べれば、確かに一番くじのほうが値段的な価値は高いかもしれない。けれど、そのために本当に自分の全財産をその一番くじに当てることができるのか。全財産というのは単純にお金だけではなく、物も含まれている。また思い出の詰まった物だってあるかもしれない。今自分が手にしているもの、大切にしているものを見ると、単純に値段の高さだけで価値があるなんて言えないでしょう。一番くじ以上に、価値のあるものを人はそれぞれ持っているのではないでしょうか。それは高価な真珠のように、その人にとって、なくてはならない貴重なものなのです。

しかし、天の国とは、そこで起こる出来事とは、驚きそのものなのです。全財産を売り払ってでも手に入れたい宝、真珠が見出された。それは、宝くじの一番くじのようなものではありません。そういうものとは全く異なるものなのです。

譬えの中には直接出てきませんが、隠された宝も高価な真珠も、持ち主がいたわけです。畑の所有者であり、真珠の所持者です。畑の地主は自分の土地でありながら、隠された宝に気付かず、いやもしかしたらその隠れたものには気づいていたかもしれないけれど、それがまさか「宝」だとは思わなかったのかもしれません。真珠の所持者は、ごく目に見える場所にありながら、その価値に気づかず、高価だとは思わず、手渡してしまいます。どちらも取るに足りないものだったのかもしれない。だから、いよいよ、宝くじの一番くじの話からは遠のいていくのです。万人が思い抱くような価値のあるものでない、取るに足りないごくありふれた物、いやそれ以上に、価値のないものであるとするなら・・・。

それは物質のことに限った事ではありません。私たち人間存在もそうかもしれない。私、あなたの存在そのものです。私の存在価値って何なのだろう・・・。そういう言葉をよく聞きます。私自身もよく自分にそう問いかけて、悩み苦しみました。自分に何ができるのか、どんな魅力があるのだろうか。人からの評価を気にしたり、他人と比較する。でも、そんな自分だって、他人のことを「ああいう人だ、こういう人だ」と言って、価値をつけようとする。自分の価値観に相手をあてはめようとしてしまうものです。

私の存在価値が見いだせない。そんな自分は畑に隠された宝とは言えない物、高価とは言えない真珠かもしれない。また、相手の存在価値が見いだせない自分は畑の中に隠された宝に気づかない地主であり、高価な真珠に気づけない真珠の所有者かもしれません。

いったい誰がそんなものを買ってくれるというのか。価値を見出してくれるのか。そんなものを全財産注ぎ込んで買うということは、他の人から見れば愚かな話です。笑いものにされるかもしれません。でも、天の国は譬えられ、動いているのです。持ち物をすっかり売り払って、隠された宝がある畑を買い、高価な真珠を買った人がいた、そのようなことが起こったのです。そして、宝として、高価な真珠とされたのは、このことが起こったからです。天の国、すなわち神の愛がここで起こっているのです。それは天の国を喩えることがお出来になる方を除いては起こりえません。そう、この持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと願っているのは、神の愛であり、それを現している主イエスに他ならないのです。

持ち物をすっかり売り払ってでも、これは本当に強烈な言葉です。強烈な行為です。神の御子がそれを成し遂げられるからです。マタイによる福音書20章28節で主イエスはこう言っています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」人の子、すなわち主イエスご自身は、全ての人のために命をかけた身代金であるとさえ言われたのです。身代金って、はっきり言えばそれは全財産です。出し惜しみなんかできない財産です。出し惜しんだら、命を失うのですから。持ち物をすっかり売り払ってでも、全財産を注ぎ込んででも、全ての人の命を救うのですから。その身代金は命であると言うのです。すなわち、命を失うということ。それが今、主イエスが辿っている十字架です。命を懸けて、畑に隠された宝、高価な真珠、すなわち私たち自身を買い取ろうとされるのです。それが十字架の出来事であり、神の愛です。

だから強烈なことがここで起こっている。神の愛が、十字架から聞こえし福音とは、私たちが宝とされ、高価な真珠とされているということ。持ち物をすっかり売り払ってでも、私たちを生かそうとされ、良きものとして見出して下さるということです。このキリストが私たちの存在価値を見出すのです。

最後になりましたが、譬え話はもうひとつあります。このキリストが語られている3つめの譬え話は、網が湖に投げ下ろされ、そこに様々な魚が集まってきて、網がいっぱいになると、引き上げられ、良いものは器に入れられ、悪いものは投げ捨てられる。世の終わりにもそうなると言われます。良いもの、悪いものとそのように選り分けられるのは、この網を降ろし、引き上げた人です。悪いものとされた人は、燃え盛る炉の中に投げ込まれ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。と主は厳しいことを言われます。

自分が良いものか、悪いものかというのは終末の時にならないとわからず、私たちの判断、価値観などは全く反映されないと言えるでしょう。先週の毒麦の譬え話にもありましたが、良い麦、毒麦は私たちにはわからないのです。私たちには選り分けられないのです。これも終末の時に、収穫の主が選り分けて、毒麦だけを火に投げ込むのです。しかし、この毒麦の譬え話の中で、畑の主は、良い麦と一緒に実った毒麦もそのままにして、両方とも育つままにされたのです。収穫の時、すなわち世の終が来れば明らかになることであると。

その終末の時がいつ来るかはわかりませんが、しかし、今私たちは、悪い魚であろうと、主に招かれている。主の御言葉が網のように張り巡らされていて、この網の下に集められているのです。主の御言葉は、天の国の譬え話。この譬え話の主は持ち物をすっかり売り払って、隠された宝がある畑、高価な真珠を買った人でした。

私たちが悪い魚のように、ただ投げ捨てられるだけの価値であっても、主は持ち物を全て売り払った、すなわちご自身の命をかけて、私たちを宝、高価で貴重な真珠としてくださいました。それは神の愛という十字架の福音であります。今日の第2日課でパウロは言います。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:35~39)。

そう、この神の愛、十字架の福音が行き届かないところはないのです。たとえ地中深く埋められていても、ただの真珠にしか見えない、取るに足りないものであっても、悪い魚であっても。神の愛は私たちを離れない。私たちの中にずっとある。私たちは隠された尊い宝、高価な真珠として、主に見出されたからです。だから、もはや世の価値観に縛られなくていい。自分の存在価値にくよくよしなくていいのです。世の価値観のど真ん中に、神の愛は、天の国は私、あなたという尊い宝、高価な真珠によって、広まっていくのです

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。