2014年8月31日 聖霊降臨後第12主日「主よ、助けてください」

マタイによる福音書14章22〜33節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

この六本木ルーテル教会は目黒マルティン・ルーテル教会と麻布聖泉ルーテル教会というふたつの教会が合併した教会でありますが、以前目黒教会の建物の写真を信徒のYさんと見ていた時に、建物の形、その特徴についてYさんから「この建物を逆さにすると船の形になるんだよと」教えられ、ああなるほどなと実感しました。船はよく教会を表すシンボルであると言われています。まず、ノアの洪水を思い起こすのでありますが、目黒教会の写真を見ながら、この六本木ルーテル教会の歩みも、まさに船路での歩みでありまして、嵐の只中を歩み続けてきたことを想像致します。私たちの信仰生活、教会生活もこの船路での歩みであり、この教会という船の真の操縦士は主イエスであるということを受け止めてまいりたいものです。

今日の福音は、今船のお話をしましたように、その舞台は湖であり、船上での出来事です。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」(22節)とありますように、前の5千人の給食の物語のすぐ後の出来事です。少々慌ただしい印象がありますが、主イエスは弟子たちを先に船に乗せ、向こう岸へ先に行かせました。主イエスが不在のまま、船が湖の上を進んでいくと、途端に強い風が吹き荒れ、波が荒々しく猛り、船は思うように進みません。風は逆風でした。他の聖書訳は「向かい風」と訳していますが、船は順調に前へとは進まず、吹き荒れる向かい風に逆らいながら前に進んで行かなくてはならないのです。それは私たちの人生が順風満帆とは限らないように、現実はこの向かい風に逆らいつつ、前途多難な中にあっても、なんとか前に前にと歩んでいくかのように、船もまた突き進んでいくのです。

そこで弟子たちは「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。」(25節)とありますように、思わぬ光景を目の当たりにし、彼らは湖の上を歩いている主イエスを見て、「幽霊だ」と動揺し、取り乱したのでした。主イエスは弟子たちに言います。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(27節)この「わたしだ」というのは口語訳聖書では「わたしである」と訳されています。それは幽霊、幻覚、そういった「ない」という存在ではなく、わたしは確かにあなたがたの前にあるものだ、すなわちあなたがたと共にここにたしかにいるのだと、主イエスは言ってくださったのでありますし、この主イエスの言葉は単なる励ましや安堵感をもたらすだけの言葉ではありません。「安心しなさい」この言葉はヨハネによる福音書16章33節で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という主イエスが弟子たちに語った言葉がありますが、この「勇気を出しなさい」というのが、「安心しなさい」という言葉と同じなのです。この箇所は主イエスの告別(遺言)説教と言われる箇所でありまして、主イエスが裏切られ、逮捕される直前に語られた言葉です。「世で苦難がある」、それはまさに今、逆風に煽られ、波に悩まされている彼らの姿、教会の姿でもありましょう。主は勇気を出せ、自信を持てと、そのように言われ、それはまた「諦めるな、諦めなくていいんだ」という思いを込めた言葉に聞こえます。あたりは暗闇で、暴風域なのです。進む方向すら見失っていたかもしれない。だから怖いのです。暗くて先が見えないのです。どんな逆風にも、負けじまいと前に行こうとしても、その方向が正しいのかどうかすら判断がつかない。当てのない船路ほど危険なものはありません。これは今の教会の歩みともなり、人生の歩みともなり得るものであります。私たちは様々な闇の只中を、また闇を抱えて、生きているのではないでしょうか。

主はその彼らを取り巻く闇、外側だけでなく、内側に潜む心の闇をもご存知なのです。方向性が定まらない私たちの真の案内人はこの主イエスであります。湖を歩いて来られた、その奇跡をどう理解すればいいのかと私たちは悩むのでありますが、主はどこか遠い安全地帯で私たちのことを見守っているのではなく、この暴風域という私たちの闇の只中に入ってきてくださったということであります。

さて、ここから先、マタイ福音書によるこの奇跡物語は、同じ物語が記されているマルコ福音書、ヨハネ福音書には記されていないペトロの行動が記されているのです。「すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」(28~29節)主よ、あなたでしたら・・・あなたが真に「ある」というお方であるなら、そしてあなたがそのように私たちを奮い立たせて下さるなら、と言わんばかりに、ペトロの心は動かされるのです。主イエスの「来なさい」という招きの言葉に導かれて、水の上を、主の身許に向かって彼は進み歩んでいくのです。水の上を歩くペトロ、そんな馬鹿な話があるものかと思うわけですが、彼は度胸試しをしているわけではないのです。彼の向かう先、彼のまなざしは主を見据えているのです。主がおられるところに行く、それは水の上を歩いていくようなもの、それはどういうことかと言いますと、ペトロが行くこの水の上の道、それはこの世の道ではないということです。この世の価値観や、合理性に満ちた理屈の世界ではないということです。主のおられるところ、そこは神の国であります。ヨハネ福音書3章4~5節で、これもまた夜の出来事でありましたが、夜、主イエスのもとを訪ねたファリサイ派の議員であるニコデモに主はこう言われたのです。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 人は新たに生まれなければ、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない、主はそうおっしゃいます。信じるとは、信仰とはそういうことでしょう。神の国、主の御教えはこの世の価値観の延長戦上にあるわけではないということです。新たに生まれるというこの出来事を体験するのです。

ペトロは今、その出来事の只中にあるのです。今だけではありません。既に5千人の給食の奇跡物語で、彼は体験しているのです。真に人間を満たす糧とは何かという主の恵みを。貧しくて、少ししかなくとも、5千人全員が満たされたという出来事を。ペトロ自身、その天からの恵みを、神様の愛のパンを人々に分け与えたということを経験しました。この世の価値観では理解できないことを知ったことでしょう。主がもたらされる神の国とは、恵みとは、そのように備えられているということを。自分自身の足らなさ、欠けているものに失望するのではなく、主が与えようとされている福音の恵みに思いを向けなさいと、主は招いているのであります。

今、水の上を歩いて主の身許に行こうとされるペトロ、彼の足場を支える目に見える土台はありません。私たちはこの世の富とか、権力、力、ありとあらゆる頼れるものに目を向けます。それが安心、安全だと思うからです。ところが、そういった自分たちの足場を支えるものがもろくも、以外な展開を向かえて、いとも簡単に崩れてしまうことを私たちは経験するのです。こんなはずではなかったのにと。

それに対して、今、ペトロの足場を支えているものは何でしょうか。どうやって歩いているのかは、具体的にはわからないけれど、彼は主の招きに導かれているということです。その道の土台は私たちが目に見える、もっとも頼れそうなものではないということです。彼の足場を支えているのは、主の命令であり、来なさいという御言葉なのです。御言葉によってペトロはこの道を歩んでいる、そう言えるのではないでしょうか。

ペトロは歩き出しました。歩き出せたのです。御言葉によって生きていく道を、歩みだしたのです。彼の信仰を目の当たりにしているのです。しかし、物語は、このペトロの姿を、信仰の歩みを以外な形で、私たちに表すのです。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」(30節)何ということでしょうか、彼は途中で道を踏み外して、沈みかけてしまうのです。彼は漁師です。泳げないはずがない、けれど彼自身の力ではどうにもならない状況が起こっているのです。主よ、助けてください。彼のこの叫び声から、今までの歩みは何だったのかと、落胆するかもしれません。本人が一番落胆したでしょう。「強い風に気がついた」、本当に思わぬ出来事でした。やはり彼の歩みも、私たちと変わらないということ、その状況は向かい風に晒されているかの如く、険しいものなのです。

そして彼の叫び声だけがここに記されているのです。「主よ、助けてください」。これは英語の聖書で読むと、よく理解できます。ヘルプミーと言っているわけではありません。英語聖書にはこう記されています。「save me Lord!」he cried.「save」、 この単語の元の意味は、救うとか保護するという意味です。手助けとか、援助するということではないのです。そんな力すらない彼の叫び声がここに描かれているのです。save me、救ってください、保護してください、これは本当に強い願望です。ちょっと助けてください、支えてくださいというレベルではない。もう彼自身、自分の力ではどうにもならないような窮地に置かれているということなのです。

主イエスはそんなペトロを「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。」(31節)とありますように、彼を救い出しました。保護したのです。信仰の薄い(小さい)者よ。確かに主はペトロを叱っているように思えます。私のことを、私の言葉をなぜ信じることができなかったのかと。

改めてマタイ福音書だけがこのペトロの姿を記しているということに注目したいのです。ペトロは強い信仰があったから水の上を歩くことができたのではないでしょう。風に気を取られ、確かに足を踏み外してしまったのです。信仰の薄いものよ、そのように語る主の御言葉は真実です。そしてこの主の言葉はペトロだけでなく、私たちにも語られている言葉なのです。

「信仰のみ」、信じることによって救われる。この宗教改革のスローガンとも言えるこの言葉を、私たちは受け止めています。信仰義認とはそういうことです。しかし、それは信仰の強さではないということです。ルターが言う信仰のみとは、今日のペトロの姿によく表されていると言えるのです。それはルターが、信仰についてこう言っているからです。信仰とは「神に対する大胆な信頼」であると。この大胆、ダイナミックという言葉をルターは特に強調しました。遠慮なんかいらないのです。いや、遠慮するということは、まだ自分の力に余裕があるわけです。大胆な信頼です。それがこのペトロの叫び声にあるのです。「主よ、助けてください。Save me Lord!」ルター自身、救いは全く外から来るということを強調しました。それがペトロをすぐに捕まえた主の御手を表しているのです。ルターの生涯、神学者として、牧師としての彼の姿は、まさにこのペトロ、沈みかけていく境地で、大胆に主に信頼を寄せて、救いを叫び求めたペトロと重なるのであります。

ルターの言葉に「我ここに立つ」という言葉があります。それはただ「主の憐れみによってのみ」立ち続けることができるという大胆な主に対する信頼の言葉です。この言葉が今年の全国の教団総会において、日本ルーテル教団の今後の三年間のテーマとなりました。宗教改革500周年に向けて、教会はこのテーマのもと、主と共に歩んでいくことを祈り願いつつ、しかし、私たちの歩みもまた、ペトロのように、沈みそうになるかの如く、自分たちの弱さに涙が絶えない歩みであるのかもしれません。だからこそ、私たちは叫び求める群れであるのです。主よ、助けてくださいSave me Lord!と。

主の御手は私たちに差し伸べられています。私たちは信仰の薄いものかもしれない。強い風に気を取られ続け、主を見失っている時があるかもしれない。しかし、そのことによって落胆しなくていいのです。ペトロが、そして福音が私たちに伝えようとしている喜びは、そんな私たちの姿を主は目をはなさず、捉えていてくださるということです。信仰とは信頼、主よ、助けてくださいという魂の叫び声から来るのですから。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。