2014年11月16日 聖霊降臨後第23主日 「その日、その時は今だ!」

マタイによる福音書25章1〜13節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日の福音でありますこの「10人のおとめ」のたとえ話は、マタイによる福音書にしかない有名な物語です。結婚式の場面で10人のおとめが登場しますが、最初からこのおとめたちは「愚かなおとめ」と「賢いおとめ」という呼び名で分かれていて、その比率は見事に半々です。来週読む福音の日課も、王様の前で人々が右側と左側に分けられるという、このような「選り分け」が行われているところで、マタイ福音書は独特な表現を用いているのでしょうか、何にせよ、どちらかの部類に選り分けられ、両者には偏りがないのです。

この10人のおとめは、花嫁の介添え人です。今日の聖書日課にも詳しく当時の結婚式の習慣が書かれていますけれど、10人のおとめたちは花嫁の家で、物語には登場しませんが、花嫁と一緒に、花婿の到着を待っていたのでしょう。ところが、花婿がなかなか到着しません。いくら待っても、到着しない。予定と違う、計画が大いに狂ったのです。とうとう彼女たちは疲れ果てて、眠ってしまいます。結婚式は中止になるのかと思いきや、夜になって、しかも真夜中に花婿が到着したという叫び声が寝静まった夜の静けさの中で聞こえてくるのです。彼女たちは大慌てで起きて、支度を始めます。暗闇の中で花婿を迎えるためのそれぞれのともし火を整えますが、ここでアクシデントが起こります。ともし火は今にも消えそうで、しかも5人のおとめたちは火を灯すための予備の油を持っていなかったのです。予備の油を持っているおとめたちは、彼女たちに油を分け与える余裕はありません。彼女たちは町に買いに出かけて、油を調達しますが、時既に遅し。花婿の家は固く閉ざされ、彼女たちは中に入ることができなかったのでした。

愚かであるか、賢いか。その判定は予備の油を持っていたかどうかということです。賢いおとめ達は彼女たちに油を分けてはくれなかった。なんと薄情なと思うかもしれません。しかし、物語は、予備の油を各々が備えることができていたかということに焦点を当てています。賢いおとめたちを攻めても仕方ありません。かわいそうだ、私の油を分けてあげる、そういう展開を聖書は望んではいないのです。聖書が言いたいことはそういうことではなく、あくまでこの予備の油を一人ひとりが備えていたかどうかということなのです。10人のおとめは10人とも、各自で予備の油を備えなくてはならなかった。そして10人のおとめひとりひとりは、私たち一人一人のことです。自分自身が、予備の油について、どう受け止め、どう備えていたかということが問われているのです。

ここで大切なことは、この予備の油が、予備の油として用いられ、役割を果たしたのは、花婿の遅延によるものだということです。想定外としか言いようがないこの花婿の行為がなければ、予備の油はお荷物になるだけの無駄な油だったということです。どちらが賢くて愚かか、逆転していたかもしません。予め、この時間に来るとわかっていれば、備える必要のないものなので、備えることはなかったでしょう。

そしてこの花婿の到着は、キリストの再臨を現しています。この世の終わりについて、主イエスが前の24章から語っておられますが、世の終わりについて聖書が記し、私たちに伝えようとしていることは、世の終わりに主イエスがこの世に再臨されるということです。主イエスが再びこの世に来てくださる、そして完全な救いがそこで成し遂げられるということが中心的な終末のテーマです。全て破壊尽くされて消滅するという人間的な不安を駆り立てるものではないのです。その時について、主イエスは「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言われているように、この終末の訪れは私たち人間が描く時間軸では捉えることができない、神の時であります。神の支配が、私たちが描く時間軸、理解を超えて到来するということ。それがキリストの再臨によってもたらされるのです。

花婿の到着が、このキリストの再臨を表している。この花婿の到着を待って、この花婿を迎える、すなわちキリストを迎えるということが、私たちに教えられています。そのために必要な予備の油。この予備の油は私たちにとって何を表しているのでしょうか。終末に向けて万事備えておくということか、再臨のキリストを心から迎えるために、清く、正しく生きていこうということを私たちに示唆しているのでしょうか。

「あなたがたは、その日、その時を知らない。」花婿の到着時刻はわからないのです。そして賢いおとめとされたのは、予備の油を備えていたからでありますが、先程も言いましたように、その予備の油は、花婿が遅延しなければ、何の役にも立たなかったのです。むしろお荷物です。ですから、予備の油を備えることと、花婿の遅延は結びついているということです。その日、その時は知らないけれど、偶然備えていたものが、役に立ったということでもないのです。また、予備の油は他人に分けることができないものです。私たち自身が備えるものなのです。

あなたがたは、その日、その時を知らない。そうです、私たちにはわからない。それ以上に考察することはできません。結局何を備えていいのかなんてわからない。だから、予備の油、それを自分の力や知識だけで求めて、手に入れることはできないのではないでしょうか。それが役に立つ保証なんてどこにもないからです。予備の油という備えがあったから、花婿の遅延にも対応できたのではなく、花婿の遅延があったから、予備の油が活かされた。遅延とは言いますが、花婿の到着です。花婿は到着するのです。その到着の出来事が、予備の油に光をもたらした。予備の油を備えることができるのは、私たちではなく、この花婿なる、キリストなのです。

その日、その時はわからないけれど、その日に備えるものは、キリストがもたらしてくださる。キリストがもたらしてくださる恵みに与るということです。強いて言えば、この恵みに与る今その時が、来るべきその日、その時を迎えている私たちの姿ではないでしょうか。

コリントの信徒への手紙Ⅱの6章1節から8節で、パウロはこう言っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。それはキリストが再臨される時、その日であります。恵みを無にするなとパウロは言います。この恵みの時に、救いの時に、神はあなたを顧みられる。聞き入れて下さる。それは何によってか、あなたが恵みによって備えられその油で、火を灯すことができたではないか。キリストを迎えるためのキリストの灯火を、心の中に灯すことができたのではないか。それはいつか。いつ起こる出来事なのか。私たち人間には到底わかりません。けれど、この恵み、予備の油は、既に賜っている。あなたがた一人一人に、万遍なく与えられているではないかということです。だから、この予備の油を、直接分けあたえることはできない、それは主がもたらしてくださるものだからなのです。

この恵みを知り、受け入れるものは、その日、その時が今であると、信じることができるのではないでしょうか。今生きている、いや生かされているこの人生に、恵みの時、救いの時は到来したのだと、受け止めることができる。喜んで受けることができる。気を張って、休むことなく、花婿を待つことはできません。賢いおとめも眠ってしまったのですから。眠ってしまってもいいのです。ただ、予備の油を手放すことなく、主と共に生きていくということです。

この恵みに生きる私たち。私たちは主の再臨の日を伺い知ることはできません。私たち自身ではどうにもならない、備えの知恵ばかりが働きます。だからといって、主の再臨に際して、無関心でいるということでしょうか。無関心でいる、それは予備の油を手放す事ではないでしょうか。私たちが頂いている油、それによってともされる命の灯火には、常に油が必要なのです。

つまり、日毎にこのキリストが与えてくださる恵みに生きるということは、キリストによって新しくされていくということ、新しい予備の油をいただくことなのです。予備の油そのものは予備の油です。しかし、それが用いられる。役に立つ時が来る。キリストがそのように用いてくださる。神の恵みを無にするわけにはいきません。

キリストが与える新しさに生きるということについて、最後に申し上げます。先月の10月31日に、市ヶ谷ルーテル教会で行われた宗教改革記念礼拝に私も行ってきたのですが、そこである牧師先生が「宗教改革、それは500年前を思い起こして、ただ記念として、伝統行事として守られるだけなのか。そうではなくて、この宗教改革を思い起こし、記念するということは、私たち自身が改革されていくことではないのか。そのことを思い起こすのではないのか」と言われていました。私たちが改革される、私たちこそが日毎に新しくされていく。他人まかせや世の中が変わることを期待するのではなく、私たち自身がキリストから与えられている恵みによって、変えられていくことが大切なのではないか。その新しさに生きていくことが問われているのではないかと、私は受け止めました。予備の油を備えるとは、この新しさ、キリストからの恵みに目を向けて、信頼し、このキリストと共に歩んでいくことです。キリストと共に歩んでいく、その時、その日は今なのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。