2014年12月28日 降誕後主日「よい酒」

ヨハネによる福音書2章1〜11節 小杉 直克 兄(六本木ルーテル教会会員、信徒説教者)

今日はキリストの誕生を祝うクリスマスから4日しか経っていませんが、今日、与えられた聖書の箇所は主イエスが生誕されてから30年ほど経った出来事です。この出来事はヨハネの福音書にしか書かれていません。ガリラヤ地方のカナでの出来事です。そのカナで婚礼、結婚式に主イエスも弟子とともに招かれていた、又イエスの母もそこに居ました。この時の弟子とは、1章を見るとシモン・ペトロ、ペトロの兄弟アンデレとフィリポ、そしてナタナエルの4名と考えられます。即ち、この時は12名の弟子がまだ全て揃ってはいなかった、最初の頃のことであることがわかります。

福音書の著者は「イエスの母」と言います。その母が、ぶどう酒が足りなくなったので、主イエスに頼みます。母マリヤではなく、イエスの母、この言い方は主イエスと母との距離をそれとなく感じさせます。

当時の結婚式は7日間程続いた様です。ですから、結婚式には相当の用意が必要だったでしょう、途中でぶどう酒が無くなったところをみると、この家はあまり裕福なお宅ではなかったのかも知れません。

私は、この出来事で40数年前の自分の結婚式を思い出します。私の結婚式はセンター教会(東京ルーテルセンター教会)の地下のアンカー室でパーティーが行われました。パーティーが始まって15分も経たないうちに料理が無くなってしまいました。この時、料理をされていたのは当教会員の大島さんでした。さすがはプロです、手持ちの材料で料理を作って下さり、その場をつないでいただきました。「心の中で手を合わせる」という言葉がありますが、まさにそんな心境でした。

この結婚式の家族も、主イエスの母も大変困ったことでしょう。そこで母は言います。「ぶどう酒が無くなりました」。これに対し、主イエスから「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という言葉が返ってきました。一見冷たい言い方、不躾にも思われます。

これに似た出来事があります。皆様も覚えておられるかと思いますが、9月7日の主日に与えられた福音書、マタイによる福音書の15章21節から始まる「カナンの女」のお話しです。悪霊に苦しんでいる娘を持つ女が主イエスに助けを願う出来事です。主イエスは「イスラエル家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言います。これも一見冷たく突き放す様にも、又拒否するかのような発言に思えますが、しかし、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と娘の病いを癒されるのです。

なぜ主は母に一見不躾な心ない言葉を言われたのでしょうか。これは主イエスと母との距離を感じさせます。それは今迄のわたしではなく、母の子供としてのわたしではなく、これからは違うということを外に伝えたかったから、敢えて母との距離を置こうとした様にも思われますが、どうだったのでしょう。何かを暗示する様にも思われます。

母は解っていたのでしょう、いや信じていたのでしょう。母は召使いに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使いに言うのです。すると、そこにユダヤ人が外出して帰って来た時に、清めに用いる石の水瓶が6つ置いてありました。清める、私たちの周りにも似たような習慣がありますね。神社などに行くと必ず手洗い場があり、柄杓が置いてあります。この柄杓で手を洗ってから参拝するものです。これには作法が在るそうですが、よく知りません。当時のユダヤ人も外から清めてから家に入るという習慣、決まりが在ったのでしょう。

この水瓶は「2ないし3メトレテス」程の量が入るようです。1メトレテスはリッターに直すと39リットル、約40リットル程です。主イエスは「水をいっぱい入れなさい」と召使いに言います。召使いたちは縁まで水を入れました。どのくらいの量になるかと言いますと、それは約120リッターになります。6つの水瓶ではどのくらいになるか、石油スタンドにある200リッター入りのドラム缶にして約3本半になります。これはかなりの量になります。充分すぎる、いや、有り余る量と言っていいでしょう。それを「宴会の世話役のところへ持って」行かせます。口語訳聖書では世話役ではなく、料理頭となっています。何にせよ料理や味などに対してかなりの経験を持った人なのでしょう。世話役は味見をします。すると、水瓶の水がぶどう酒に変わっていました。しかも、「よいぶどう酒」に変わっていたのです。

水が酒に変わった事の経緯を世話人の人は知りませんでした。そのことを知っていたのは召使いたちでした。現代風に言えば学者や経済人や有名人ではなく、身分的なものを持たない、ごく普通の人たちだと言えるでしょう。世話役の人は「よいぶどう酒」は結婚式の主役である花婿が用意したものと思い込んでいました。水をぶどう酒に換えた、即ちこの証を行った人が、主イエスであることを知っていたのは、召使いでした。世話役つまり、この世の著名な人ではなく召使い、すなわちごく普通の人がそのことの証人となったのです。

主イエスは婚礼に出席している全ての人々にぶどう酒、よいぶどう酒を、それも充分すぎる量を用意されました。思い出してください。「カナンの女」のお話の時はパン、パンくずが出てきます。この「カナの婚礼」に於いてはぶどう酒が出てきます。主イエスが捕らわれる前日の晩、最後の晩餐の時、主イエスがパンを取り「これはわたしの体である」杯を取り「わたしの血」と言われた、そうです、聖餐を思い浮かべるのは、思い込み過ぎでしょうか。

この「カナの婚礼」の出来事は、主イエスが旧約聖書に約束されたメシアとして、すなわちキリスト・イエス、救い主として、初めて人々の前で示された「しるし」、奇跡なのです。それは飲む者にとってよいぶどう酒、よい酒なのです。なぜなら、その酒は主イエスキリストご自身がご用意されたものだからです。その量は有り余るほど、尽きることがないと言っても過言ではないでしょう、それをご用意されたのです。そして、このしるしを見た弟子たちは主イエスを信じたのです。
アーメン。