2015年2月15日 変容主日「苦難が示すもの」

マルコによる福音書9章2〜9節   藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

日本ルーテル神学校では、教職神学セミナーという牧師のためのセミナーが毎年行われていまして、先週の月曜日から水曜日まで私も参加してまいりました。今年のテーマは牧会であります。牧師の最大の務めですね。そしてこのテーマの主題は「それでも、主を見上げて~牧会の光と闇」という、刺激的なものでありました。「それでも」、それでもと言う意味では絶対に諦めないという心構えでしょうか。そして「主を見上げる」、その姿勢は何なのかと考えながら、セミナーの時を過ごしました。

色々な気づきが与えられました。まずこの牧師という職業ですが、牧師は羊飼いではないということです。羊飼いは主イエスキリスト唯お一人であり、牧師というのは羊たちのまわりを行ったり来たりしてお世話をしている人だということです。主イエスという羊飼いを前にして、その牧師もまた一匹の羊であります。また、牧師の務めは「語る」ことではなく、「聞く」ことであるということです。神様の声に全身全霊を傾けて聞き続けるということ。それでこの聞くという旧字体の「聽く」という字の構造は「耳と目と心を一つにして十全に用いて王の声に聽く」となっているそうです。

「聞く」という姿勢が問われています。普段何が聴こえてくるでしょうか。人々の声のざわつき、車の音、工事の騒音。これらはよく聞こえます、というか聞かされていると言えるでしょう。花のさえずり、虫や動物の鳴き声は、耳を研ぎ澄まさないとあまり聞こえてきません。自分自身が聞けていないということもあるでしょう。聞くというのは、自分の知恵や力、考えをとりあえず脇におく必要があるのではないかと思います。自分を無にするなんて言葉もあります。聞くことによって、自分以外の存在とのつながりをそこで見出し、その存在とのつながりの中にある自分というものを発見する。時としてそのように変えられる自分の姿があるのではないでしょうか。自分以外の大きな世界と自分自身はつながっているのだと。大きな世界から見る自分、自分のことだけれど、以外に知らない自分の姿がそこにはあるわけです。目の前のことで精一杯、その視点に縛られている私たちの日常があるのだと思います。

語ることではなく、聞くということ、これが主を見上げる姿勢なのかと思いました。神様の声を聞き、神様との関係の中に生かされている私の存在。神様、それは人知では到底計り知ることのできない存在です。その神様との関係の中で自分を知るということは、この私のことを誰よりも、自分自身よりも知っていてくださり、受け止めてくださっているのは神様であるということ。私の喜びも楽しみも、また悲しみも苦しみも痛みも、主が受け止めてくださり、共にその場にいてくださるということです。この神様の御心を聞くという歩みであります。そこに神様の驚くべき恵みが見えてくるのです。

さて、今日は主イエスの姿が変わったことを記念する変容主日です。この聖書箇所の出来事をどう聞けばよいのでしょうか。非日常的な神秘的な世界が描かれているように思えます。でも、すぐ前の9章1節で「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なないものがいると」主イエスは弟子たちに語られています。神の国が、すなわち神のご支配が、御心が力にあふれて顕されているのがこの変容の出来事なのです。

6日の後とあります。6日前に何があったのでしょうか。主イエスは弟子たちに言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(8:31)主イエスが行く道、たどりつくところは受難と十字架、死に至る道であると。救い主としての権威ある教えと御力、多くの人を癒されたそのお方に対する期待は大きかったはずです。この人について行けば、道は開かれる。そんな彼らの期待とは別の道に主は行かれる。彼らはひどく落ち込み、不安に打ちひしがれていたでしょう。

そんな折、主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登り、ご自身の姿を彼らの目の前で顕されたのです。そこにモーセとエリヤという旧約聖書の人物が現れて、主イエスと語り合います。モーセはシナイ山で神様から律法の石版をいただいた律法の権威者で、エリヤは預言者の中でも力ある預言者です。律法と預言という旧約聖書そのものを示している二人の人物と主イエスが話しているわけですから、弟子のペトロは神様の栄光が顕されたと思って感激するわけです。仮小屋を建てて、この場所を記念としたい。しかし、ペトロはどう言えばよいのか、分からなかった、自分のしていることがわかっていませんでした。神様の栄光を前にして、それは確かにすばらしい光景だったのでしょう。湧き上がる気持ちがあった。しかし、その栄光が語るものは、自分とどう関係があるのか。本当に自分が分かっているのか。どんなにすばらしい豪華絢爛な言葉を使っても、本当に自分はその言葉の本質を理解しているのか、または相手に伝わっているのかという体験をよくします。どんなにすばらしい力や知恵をもっていても、それらをしっかりと用いることができているのかということもそうです。ペトロの思いの中には、主イエスの受難と十字架の道は描けなかったのでしょう、ここに主イエスの権威がある、救い主としての力が存分に示されていると。そのような光だけを見つめ、彼は求めていたのです。しかし、光だけを追い求めていても、その本質はわからないのです。だから闇に目を向ける必要があるのではないでしょうか。闇の只中でこそ、光は輝く。主イエスが行かれる受難と十字架という闇であります。

やがて雲に覆われ、何も見えなくなり、声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9:7)これとは何か。彼らが辺りを見回したとき、そこにおられたのは主イエスだけでした。モーセもエリヤもいない。だから「これ」とは、そこにおられる方、主イエスのこと、主イエスに聞けとその声は弟子たちに語ったのです。そして、モーセとエリヤ、旧約聖書全体を表す彼らがいないということは、もはや旧約聖書に聞く必要はないということでしょうか。そうではなくて、今ここにおられる主イエスこそが旧約聖書に示されている神様の救いを顕しているということです。主イエスは山上の説教で「私は律法を廃止するために来たのではなく、完成するために来たのだ」(マタイ5:17)と言いました。

この旧約聖書からの神様の救いを主イエスは受難と十字架という闇を通って、復活という光によって成し遂げるのです。そのために、この栄光を顕された場所を離れるのです。山を降りられるのです。山の下は、私たち人間の日常、現実の領域であります。主イエスを捕らえようと待ち構えている人がいます。主イエスに期待を寄せて、追い求めてくる人がいます。様々な問題が人の数だけある現実世界、主はその只中を生きられ、私たちの歩みを共にしてくださるのです。

これに聞け。主イエスの福音に耳を傾けよ。そう語られました。聞くということは、先程も言いましたが、自分の力、知恵、考え、体験を脇において、その存在とのつながりを見出すこと、そして理解するということより、信じるということではないでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言っているのです。

キリストの言葉を聞くことによって始まる新しい歩み。私たちの日常は山の下であります。山の下であるけれど、主も一緒に降りてくださった。主が行かれる道は十字架への道であります。私たちの歩みも恐れや不安、困難が伴う歩みであるかもしれません。闇ばかりが目につくかもしれません。しかし、主は弟子たちの前で、私たちの前で変容されたのです。私たちの思い、理解を超えて、驚くばかりの恵みをご自身の栄光の姿によって顕されました。死を超えた新しい命のありかを私たちに示してくださったのです。

四旬節を前にして、私たちは主の変容の前に立たされ、主と一緒に山を降りました。主イエスの受難と十字架を覚え、ただ罪の重さにびくびくと震える日々を送るのが四旬節ではありません。この闇をだれがとっぱらってくれるのかと不安になるわけでもない。この闇の只中にこそ、キリストという福音の光は輝きを放つのですから。だから、私たちはキリストから聞くのです。福音を聞くのです。それは絶望ではなく、闇を通って、示されている希望の御言葉です。このキリストとの歩みの中に生かされている自分を知りましょう。目の前は闇でも、苦難にしか思えない現実であっても、キリストから見られ、知られている私たちは、光に包まれているのですから。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。