2015年10月18日 聖霊降臨後第21主日「主の慈しみ」

マルコによる福音書10章17〜31節  日本ルーテル神学校校長 石居 基夫 牧師

 今日の聖書の箇所は、たいへん有名というか、私たちにとって印象に残るストーリーではないかと思います。せっかく、イエス様に教えを請うてきた人が、厳しい言葉で立ち去る姿には、なにかこれで良かったのかという気がするのです。

 熱心に救いを求めてイエス様に尋ねたこの人はおそらく誠実に、真面目に生きてきたのだと思う。律法の教えに忠実に生きる、その実践は彼自身にとっても誇りに思うことだったに違いない。その彼がなお自分に何がすべきことがあるでしょうかと、イエス様のところに教えを請うてやってきた。そこに、足りないことがなお一つあると言われたわけです。イエス様が何を言われるか、その一つをも必ず自分で真面目に向かい合おうと、そう思っていたに違いない。

 ところが、イエス様はこの人に、「あなたの全財産を売り払って貧しい人々に施しなさい」といわれます。それは、彼の生活を根こそぎ奪うことになるわけですね。かれは、即座にそれは無理な話だと、気を落とし、立ち去っていくのです。

 私たち自身、この主の厳しさに、戸惑いをおぼえるのです。もし、イエス様に従っていくということがそんなことだったら、たいへん。このイエス様の厳しさは、いったいどういうことなのだろう。

 彼は熱心に求め、自分の人生をよりよく生きて、永遠の命、その祝福を受け取りたい。そういう願いをもって、真面目に生きてきたことでしょう。人生の目標を追い求めてきたのです。ところが、イエス様は、その彼の歩みをとめられたのです。

 それは、この歩みが彼を救わないからです。彼を本当の意味で生かさないからです。彼は、生きるということの中で何か大切なことが見えなくなってしまっている。一つ足りない、しかし、その一つは、彼の生き方の根本の問題なのです。

 彼が誇りとしてきた律法の遵守は、そもそもどうして可能だったのでしょうか。それは、彼に豊かな財産とその生活があったからでしょう。彼は、全財産を施すようにと言われたときに、まっすぐにそれを受け取って、それはできないと思ったことでしょう。それは、当時の世界の中で自分が貧しくなるということがどういうことか、すぐそれと分かったに違いないのです。

 貧しい者は、実際の生活において苦しみを持つだけではありません。彼らは、いわばその貧しさ故に、社会的にも宗教的にも差別されるのです。貧しい人々は、当時求められた律法の戒めを守って生活することは現実的にできないのです。それは、今の世界をみても分かります。世界中貧しい人たちがなんとか生活をするのは、社会の中で認められない不法住居、子どもたちは届けられずに、教育も受けられない。そういう状況が、更に衛生も治安も悪くしていくということは当然なのです。

 だから、貧しさは、すなわち逃れようもない苦しみの現実であるし、そんな生活に生きなければならないのは、神様の祝福から遠い者なのだから、罪を犯した結果なのだというのが常識とされたのです。そうして、社会的・宗教的に差別される。それは、そもそも彼の求めることとはまるで違うことだったのです。

 この人の問いは、何をしたら、「自分が」永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いです。そこに自分の幸せを見ていたことでしょう。そして、それは自分という個人的な問題だったのです。

それに対して、23節からイエス様が語られるのは「神の国」のこと。そこでは、神の支配される領域、また人々が共に生きる共同体が考えられている。

 ですから、イエス様がこの人に伝えたかったのは、大切なことは、彼が全財産を施すかどうかではありません。そうでなくて、かれが永遠の命を受け継ぐことを極めて個人的な自己実現のなかでしか考え及んでいないということの問題ではないか。神の国は、ひとり自分だけが住む世界ではないのです。

 自分だけの幸せを求めても、そこには神の国はない。神様が愛される多くの人々は、今、苦しみや、貧しさや病、障害をもって生きている。主の恵みと慈しみのまなざしには、その一人ひとりがある。その人たちのことを、ないがしろにしてあなたは自分だけで永遠の命を喜べるのか。永遠の命を求めるこの人に、イエス様はそう問いかけられていると言ってよいように思う。

 国民的歌手グループが、「世界に一つだけの花」という歌をうたいますね。ナンバーワンに、ならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。競争社会のなか、一人ひとりの個性をもっていきることを応援する。いい歌です。でも、この歌には、ところどころ引っかかることがあるのです。花屋の店先に並んだ大きな花や小さな花がどれもみんなきれい、なのはあたりまえなのです。そこに並べられることはすでに選ばれてきたものだからでしょう。実は、どれもそれぞれにきれいだと、個性を尊重するその背後に隠されたところで、どれだけの花がすてられるのか。別に、歌に罪はないので、こんなことを言うのは、ただの意地悪みたいです。でも、目に見えていることだけで考えるところには必ず落とし穴があるということです。

 この金持ちには、自分がどうして律法を守ってこられたのかというその前提となっている豊かさ、そして、その犠牲になっている貧しさの問題が見えていない。主が、なぜこの人に、全財産を売り払い、貧しい者に施すように命じられたか。そのみことばが語られるとき、イエス様は、この人にどうしても気づいてほしい現実があるからでしょう。

 もう一つ、「自分の花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌いきる。でも、本当に大切なのは、自分の花ではなく、誰かの花を咲かせることのために一生懸命になる生き方ではないのか。

 この人も自分が永遠の命を得ることに一生懸命であったのです。でも、彼が目を向けるべきは自分のことではなく、あなたのとなりに、困難と苦しみの中に佇む人があるということでしょう。

私たちは、それぞれ個性を重んじ、自分に責任をもって生き、平和な社会に貢献するように備えをしていこうと、いかにももっともらしいことばで自分の正義を守っても、大切なものを見過ごしてしまっているのかもしれない。美しいことばの背後で、いったい誰とともに生きて、誰を切り捨てようとしているのか。今の日本という国のことを考えさせられるのです。そして、それは私たち一人ひとりの問題です。

 ここでイエス様が言われる、あなたに一つ足りないことがあるというのは、私たちもともに聞いていくべきことでしょう。誰とともに生きるのか。永遠の幸福をもとめる。そのいのちは、誰とともに生きるいのちか。逆に誰を切り捨てるいのちなのか。気づかないうちに、自分がそういう生き方のなかにたっている。イエス様の厳しさは、私たちの歩みを止めて、私たちが何に向かって歩んでいるのかを考えさせることだと言っても良いでしょう。その時に、私たちが誰とともに生きようとしてるのか。誰のために生きようとしているのか。そのことを考えさせられるように思うのです。

 しかし、それにしてもこの金持ちが気落ちをして帰っていくものであることが気になるのです。その姿には、私自身の背中を見るからでしょうか。もちろん、共に生きていくべきことへの招き、特に小さき人、弱い人たちと共に生きることへと心を向けていくべきことはその通りだとおもうけれども、主が愛されるのは、貧しい人のことだけなのだろうか。熱心に生き、真面目なひとがある程度の財産を持つこともあって、それは祝福された「しるし」でもあったはずなのです。

 イエス様は、そうした私たちの問いや、現実も知っておられます。そして、この一見すると厳しいストーリーのなかでも、またイエスの愛を知らされます。実は、他の福音書には書かれていないのですけれども、この福音書を書いたマルコだけ、この人を見るイエス様の慈しみのまなざしを記録しています。私たちは、主の問いかけや、時に厳しく教えられることがある。けれど、私たちはそれで見捨てられることはありません。むしろ、私たち一人ひとり、だれもみな弱さがあり、過ちもあり、罪の虜になっているのです。それは、貧しい者もまたそうでしょう。

 自らを誇り、与えられているものの感謝を忘れること。持っているものに固執し、自分だけを守り、人を愛することができないこと。そんな私たちの現実を主はよく知っておられるのです。だからこそ、私たち一人ひとりに厳しく導きをもってそのみことばが語られる。私たちは、だれも、主のみことばによって問いかけられ、悔い改めに導かれ、新たに生かされていく。

 この、出来事においても、私たちは、一人ひとりを見つめる、主の慈しみのなかにあることを知りたいのです。そして、今日、私に主はなにを問われているのか。どう生きるように導かれているのか。その呼びかけ、そのみことばに聞いて、新しい一週間を、主の慈しみと導きのうちに生かされていきたいと思うのです。