2015年11月8日 聖霊降臨後第24主日「自分を愛するように愛す」

マルコによる福音書12章28〜34節   藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書は、神様の教えの中の教えと言いましょうか、その教えの本質について語っている主イエスの御言葉です。その発端は、ある律法学者の一人が主イエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28)と質問をしたことでした。彼が言うユダヤの掟というのは、旧約聖書の律法を軸としている248のしなくてはいけない掟と、365の禁止されている掟のことを指します。合わせて613の掟の中で、一番大切な掟、教えは何ですかと、主イエスに期待を込めて、彼は質問したのでしょう。主イエスの答えは、第1に神様を愛することと、第2に隣人を自分のように愛することであると言われ、ふたつのことは、ひとつの根本的な掟であると答えられました。主イエスの答えは、その掟が613項目の中で一番優っている掟で、他の掟はそれほど優ってはいないということではなくて、全ての掟が、この愛に基づいている掟であるということを言っているのです。それは、日本国憲法が平和を軸とした平和憲法と言われるように、神様の掟の本質は愛を軸としたものであるということを私たちに伝えているのです。

 例えば、申命記23章19節には「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」という言葉があります。そのように貧しい人たちのためにも残しておきなさいという配慮に満ちた教えがあるのです。また23章26節では「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を掴んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。それは旅人や貧しい人への配慮として、すべて自分だけで独占し、飢えているものをないがしろにするな、そういう人たちが飢えてしまわないように、配慮しなさいということを教えているのです。隣人を愛するということが、それらの掟の中に具体的に顕されているのです。決して、自分自身が立派な人間となり、人々から賞賛され、何か善い行いをしてその成果を残すことということのために掟があるということではないのです。

 このことは、わざわざ愛すると言わなくても、道徳的な次元で受け止めることができるかもしれません。わざわざ聖書から聞かなくても、道徳を大切にし、人のために思いやりをもって生きることがどれほど大切なことであるかということは、誰しもが受け止めていることだと思います。

 ただ、主が言われるこの愛の掟をよく見ますと、隣人愛の教えに関しては、ただ隣人を愛しなさいと言っているのではなくて、「隣人を自分のように愛しなさい」(12:31)と言っておられることに気づくかと思います。この掟の言葉はレビ記19章18節からの引用で、こう書いてあります。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」隣人を愛すること、それは自分自身を愛することと同じようにということです。自分自身を愛する隣人への愛とはどういうことなのでしょうか。隣人をこのように愛しなさい、こうしてあげなさいということは、先に読みました申命記の中にも具体的に記されていましたが、それは自分自身を愛するところから来ているものであるというのです。

 自分自身を愛すると言われて、本当に自分は自分のことを愛しているのだろうかということを考えないでしょうか。愛するということを少し砕いて言えば、受け入れるとか、知るということでもあるかと思います。自分は本当に、そのままの自分を受け止めて、自分という存在を知っているのかということです。

 人は自分の価値を見出されて、人から必要とされたい、受け止められたいという思いを抱いて生きています。自分の居場所はどこにあるのか、自分の居場所はここだ、ここで生きていていいんだという確信が持てれば、幸せなことだと思います。そのように自分自身を受け止められる心が、愛する心を育むのだと思います。他者、隣人をも受け止め、愛していけるのではないかと思います。しかし、この世を生きていく中で、なかなか自分のことをそのままに受け止めることは難しいことです。世の中は成果主義に満ち溢れています。人を業績で判断し、結果に答えを求めようとします。結果を残すことが、その人の価値を指し示すかのように、そのような目に見えるところだけで、人の価値、自分の価値を判断してしまいます。自分自身も、こんな自分の姿は世の中では受け入れられない、世の中の価値に見合った自分に変わらなくてはいけないという切迫感を感じているのではないでしょうか。

 ヘンリーナウエンというカトリックの司祭であり、神学者であった方が、彼があるジャーナリストの友人と出会い、その友情を元にして、神様の愛を描いている著書「愛されている者の生活」の中で次のようなことを言っています。
「私たちの人生における最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することです。成功や名声や権力は、実際、大きな誘惑をもたらします。しかし、それらに人が魅了されるのは、自己を拒否するという、もっと大きな誘惑から出ていることが多いのです。「あなたには価値がない」「愛されるに値しない」と呼びかける声を私たちが信じるようになると、次は、成功、名声、権力を求めることこそが、その問題を解決する魅力的な手段のように感じられます。・・・私がいつも驚かされるのは、いかに容易に自分がこの誘惑に屈してしまうかです。」
彼は「人生の最大の罠は自分を拒否することである」と言います。自分には価値がない、魅力がない、だから自分は人から受け入れられない、愛されないという拒絶。だから目に見える成果を経て、人から認められたいと思う行動に出るというのです。

 もし、その目に見える成果の中で、自分自身の中に価値を見出し、その価値観の中で自分を受け入れて、そんな自分を愛するのであれば、隣人に対してもまた同じ愛を向けるのではないでしょうか。自分はこんなに価値ある人間だから、相手もそのような人間にしてあげないといけない。そのように自分の価値観を軸としたまなざしで隣人を愛そうとするのです。しかし、それは愛すると言えるのでしょうか。それはどこまで言っても、人間の好意であって、愛と呼べるものではないのです。むしろ、それは自分自身の首を絞めている状態です。本当の自分を愛せない、こんな自分は認められないと自分に嫌気をさし、あの人は何であんなに恵まれているのだ、何で自分はこんなに不幸なのだと不平不満を言ってしまう。自分を愛する、受け止めるということは、今の時代においても、容易なことではないのです。誰しもが自分のことで思い悩んでいます。人のため、社会のために貢献するということの大切さを頭の中で理解できていても、こんな自分は本当に必要されているのか、世の中から必要とされているのかということに思い苦しみ悩んでいる姿があるのです。

 『隣人を自分のように愛しなさい。』。それは何よりも自分自身が愛されている、受け入れられていると抱いているところから生まれる隣人への愛です。なぜ神様を愛し、隣人を愛すのか、それはあなた自身が愛されているからだと、主はその伝道の旅路の中で、人々に向かってずっと叫び続けてきました。人々から嫌われていた罪人や徴税人たちと食事を共にし、彼らの生をそのままに受け止めてこられました。主イエスのご生涯を通して、どんな欠けだらけのあなたであろうと、世の中から価値がなかろうと、あなたは愛されている、自分を愛せないあなたを私は決して見捨てず、あなたと共にいると、約束してくださっているのです。

 最後に主はこの律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」(12:34)と言われました。主イエスの愛の掟は、この神の国から起こっているのです。ルカによる福音書の中に100匹の中から迷いでた1匹の羊の例え話(ルカ15:1~7)がありますが、群れからはぐれてしまった1匹の羊を取り戻すために、羊飼いが99匹を残して、その1匹のために必死になって、その1匹を探し求め、ようやくその1匹が見つかった時、その1匹を見つけた喜びを友人や近所中の人々と喜び分かち合うというお話です。このお話の後で、主イエスは「悔い改める1人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)と言われました。悔い改める一人の罪人、それは世の中では価値のないものと思われているような人を指します。それが迷いでた1匹の羊に例えられていますが、この1匹が見つかり、羊飼いのもとに戻ってきた心境を天にある喜びであると言われたのです。この天というのが神の国です。ですから神の国の喜びは、そのようなあなたが、羊飼いである神様から決して見捨てられてはいない、愛されている存在であるということにおいて現されているということなのです。誰ひとりとして、欠けてはいない、あなたがたひとりひとりが、神様の愛の中にあるのだというまなざしをもって私たちを見つめつつ、この愛の掟を私たちに語っておられるのです。

 神の国は遠くない、尚、自分自身が愛されているということになかなか気づけない私たちに、主はこう語ってくださっています。自己拒否の思いに囚われていても、神の国は決して遠くはない。神様の方から私たちと関わってくださり、私たちの歩みを、その愛のまなざしをもって見つめていてくださり、全力で愛してくださっている真実を今新たに受け止めたいと思います。それほどまでに私たちは神様から大切とされている存在なのです。

 先のナウエンの著書の中で、(ジャーナリストの友人に向けて)彼は私のただひとつの願いは「あなたは愛されています」という一言を伝えることであると言っています。これに尽きると言います。何かすばらしいことを相手にしてあげることということではなくて、あなたは愛されている、あなたは、あなたの存在そのものが神様から受け入れられているということを伝えていくのであると言います。そして彼はこう言っています。「私の友情によるあなたへの最高の贈り物は、あなたが愛されている存在であることを伝えることです。その賜物は、私がどれだけそれを自分のものにしているかに応じてだけ、差し出すことができます。」彼は友人への友情からこう言っていますが、あなたは愛されているという賜物、その賜物を隣人に与えられることも、自分自身がどれだけその愛を抱いているのかということにおいて、同じだと思います。「隣人を自分のように愛する」。まず何よりも、自分が愛されている存在として、神様から愛の賜物を頂いているという喜びから起こる隣人への愛なのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。