2015年11月15日 聖霊降臨後第25主日「乏しい中から」

マルコによる福音書12章41〜44節   藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書は、非常に小さい物語ですが、献金のことで思いめぐらす聖書の御言葉ではないかと思います。舞台はエルサレムの神殿です。この季節は、ユダヤ教の三大祭りのひとつである過ぎ越し祭が近づいていたので、その準備のため、また巡礼のために多くの人々がこのエルサレム神殿に集まってきて、あたりはにぎわっていたでしょう。そして、主イエスはこのお祭りの日に十字架にかかって死なれるのです。

 このエルサレム神殿の回廊に、ラッパを上向きにしたような賽銭箱が13個置かれていまして、神殿を訪れる人は、その賽銭箱にお金を入れて、献金をしていました。献金をする、神様に捧げものをするという律法の教えの内容は、自分が得た収入、例えば、穀物や家畜などを含めたものを指しますが、その収入の10分の0を捧げなさいというものでした。ユダヤ人たちはそのことを文字通り守ってきたのです。この時も、彼らは律法の教えに従って、それぞれの収入に応じて、献金をしていったのでしょう。

 主イエスは弟子たちと共に、それらの賽銭箱に献金をされる人々の姿をご覧になっていました。そこには「大勢の金持ちがたくさん入れていた」(12:41)姿がありました。彼らは献金の教えを守る上での当然の義務として捧げていたのでしょうが、どこか他の人よりも、自分は神様にこれだけ多くの献金をしているという誇らしげな思いを持っている人もいたかもしれません。気持ちに余裕があるのでしょう、これだけ備えても自分の手元には多く残るから、多く献金をしても惜しくないし、神様の教えを堂々と守り、信仰者の模範として、人々からそのように見られているという自覚があったのかもしれません。

 そこに、一人の貧しいやもめが来ます。やもめというのは、寡婦とも言います。未婚者のことも指しますが、この場合は夫を先に亡くした未亡人のことを指します。男性の場合はやもおというそうですけど、この言葉を辞書で調べて見ますと、この言葉の由来の一つとして、これは一人で家を守るという意味合いがありまして、漢字にすると屋守(屋守り女、屋守り男)というものであったと言われています。ようするに、自分一人で生活を支えなくてはならない、生きていかなくてはならない、家を守らなくてはならないという厳しい環境の中での人生を歩まなくてはならないということでしょう。されど、このことは現代に生きる私たちの想像を遥かに超える過酷さがあるのです。もちろん今の時代でも、やもめの方、未亡人、またパートナーを失った方の生活は大変なものです。シングルマザーで子供を育てていく、そういう方々のための支援機構がないわけではありませんが、並大抵のことではありません。ですから、その方々が抱えている経済的な問題は実に根深いものです。現代でもそのような状況にあるのですから、この主イエスの時代、旧約の時代はもっと過酷であったのだろうということが予想されます。だから、先ほど、やもめという言葉のルーツを屋守、1人で家を守るということから来ていると申しましたが、一人で守るどころか、それはほぼ不可能な生活状況であると言えます。誰か、支援者がいなければ、支援者に頼らなくては生きてはいけないのです。旧約聖書のルツ記を読むと、その内実がおわかりになるかと思いますし、今日の第1日課で読まれましたサレプタという地域に住む1人の子供をもつやもめの姿も、その悲惨な状況を具体的に描いています。

 このサレプタに住むやもめは、自分のところに訪ねてきた預言者エリヤに言います。「あなたの神は生きております。でも、私たちは最後に残された小麦、油などの食材を使ってしまえば、あとは死ぬばかりです」と。だから、最後に残されたその食材、それは言ってみれば、彼女とその息子の命そのものと言っていえるでしょう。命の源であるその最後の食材を手放してしまえば、もう私たちはおしまいだ、ただ死ぬだけであるというのです。このような状況に合わせた神様を恨んだり、神様なんていないのだと思っても不思議ではありませんが、主は生きておられると彼女は言うのです。しかし、主は生きておられるかもしれないけれど、もうじき死ぬ定めにあるこの私たちと何の関係があるのだろうか、そういう思いもあったのかもしれません。でも、彼女はエリヤに言われた通り、最後の食材でパン菓子を作り、エリヤは神様の言葉を彼女たちに告げて、それ以後、彼女たちの糧である壺にある小麦粉、瓶の油はつきることなく、彼女たちは生きていくことができたというところで、今日の第一日課の物語は終わっています。つまり、彼女が最後につくったパン菓子という自分の命を神様に捧げた、神様に委ねたということでしょう。神様はその命をもってして、彼女の人生を終わらせたのではなく、新しい小麦粉、油という命を彼女たちに与えてくださったということです。

 神様は本当に生きているのか、生きていたらこの私とどう関わり、どう生かしてくださるのかと私たちは考えるかと思います。それは私という人間があって、神様の存在を考えるということでしょう。しかし、本当は逆なのではないでしょうか。もう終わりだと確信する。そこで主はパン菓子、あなたの命を私に委ねよと語られるのです。あなたという存在をあなた自身で受け止めるのではなく、私という神様が受け止めるあなたの存在があるのだと。絶望の只中で、しかし、それは絶望のままに終わるのではなく、新しい希望への始まり、見出される新しい命の始まりを私はあなたにもたらすのだと、彼女のその叫び声の中で神様の憐れみはそのように彼女に顕されました。今や彼女に与えられた新しい小麦粉、油という命、そこに彼女の明日への生が決定づけられているわけです。それは生きている神様との交わりであり、この交わりの中における命であり、自分の存在なのです。だから、まずあるのは、私ではなくて、神様であるということ、神様が生きていて、そして私たちが生きている。神様が生きておられるから、私たちが生きることができるということ、私があって、神様があるのではなく、神様があって、私の存在があるのではないでしょうか。ですから、私たちのこの命、それは自分が所有するものというものではなく、神様から与えられる命、神様から与えられている生活を私たちは生きるのです。

 福音書に戻りますが、主イエスの前に現れた一人のやもめも、無論明日が保証されている身ではありません。彼女は、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れました。これは当時のローマの貨幣ですが、今で言えば、10円玉2枚、または50円玉2枚という金額です。他の人から見たら、それは献金と言える金額ではなかったでしょう。あってもないようなもの、忘れ去られるものです。しかし、それは彼女の生活費の全部であったと言われています。それを献金して手放したということは、生活、命をつなぎとめるための手段を彼女は失ったということです。このやもめには言葉がないので、その時の心境は伺えません。でも、主イエスはこのやもめにではなく、弟子たちに言うのです。弟子たち、すなわち教会に対してです。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12:43~44)この人は、他の誰よりも、もっとも多く献金したというのです。確かに金額の割合で言えば、10,000円持っている人が1,000円入れるのと、100円持っている人が、100円入れるのでは、パーセンテージが違います。10パーセントと100パーセントです。単純な金額の大小ではなく、100パーセント入れた人のほうが、多く入れたということにはなります。しかし、主イエスが言われることは、「乏しい中から」ということです。予め、生活のためにお金を使って、余ったお金をすべて献金したということではないのです。予めも何も、最初から彼女は乏しいのです。欠乏しているのです。レプトン銅貨二枚というのは、余ったお金でもありませんし、また再び得られるお金でもありません。彼女の生活そのもの、命そのものなのです。サレプタのやもめと同じように、彼女もまた自分の命を神様に捧げ、委ねたのです。

 サレプタのやもめと違い、この物語はここで終わっていますので、このやもめがこの後、どうなったのかはわかりません。全てを捧げた彼女には、この後幸せになって生きていてほしいという願いがあるかと思います。きっとそれだけのことをしたのだから、神様はこの人に幸せな人生を与えたであろうと、想像するかと思います。でも、そういうことは一切記されていません。主は何も語られないのです。もしかしたら、このやもめは亡くなられたのかもしれません。

 ただ明確なことは、このやもめが捧げた相手である主は、この数日後に、十字架に掛かって死なれるということです。彼らの献金が少ないから、神様を忘れるようにして、主をないがしろにした結果としての十字架の死ではありません。この十字架の死は神様のみ心なのです。主イエスも全てを捧げて死なれたのでした。いや、主イエスこそが真に全てを捧げて、死なれた方なのです。それは誰に向けてか、誰のための死であり、捧げ物であったのか。それは私たち人間に対してです。人間が神様のために捧げられたのではなく、神様が人間のために、愛する私たちのために捧げられたのです。それは乏しい歩みの只中において起こったことです。主イエスのご生涯、ご自身は私たち以上に乏しい方として、この世界に来て下さり、私たちと共に歩んでくださり、私たちの命、生活のために、その乏しさの中で、全力で私たちに愛を注いでくださいました。真の人として、その乏しさの中で、私たちに惜しみない愛を注いでくださり、倒れていたもの、希望を失って立ち上がれないものを、愛の御言葉で、立ち上がらせてくださいました。そして誰しもが迎えなくてはならない死に対して、主はその歩みを止めることなく突き進み、死を迎えられたのです。しかし、それはまた命の道に至る、死への道でもあったのです。主は生きておられる、その喜びは、あの復活の朝に、死の象徴であるお墓からの復活によって、私たちに現されているのです。墓を打ち砕き、死を打ち砕かれたのです。

 生活費という命を捧げたあのやもめも、もしかしたら死を迎えたのかもしれません。けれど、そのやもめも、今やこの復活のキリストと共にあって、キリストの愛のうちに生かされているでしょう。主は生きておられる故に、私たちも生きている。主は復活された故に、私たちも復活の希望に与っているのです。

 昔、ある教会で実習をしていた時に、子供礼拝に参加していました。その礼拝の献金の最後に、代表で一人の子供が献金のお祈りをするのですが、その時に「この献金を神様の御用のためにお使いください」という祈りがなされていました。実に素朴でシンプルな内容ですけれど、神様の御用のために、まさにそれが献金の本質を現している祈りであると受け止めました。神様の御用のために、み心がなされる為に、用いられる献金。その献金が用いられるところに、神様の御業が目に見える形で、現されていくのでしょう。それは何よりも、あのやもめのために、貧しい人のために、そして私たちひとりひとりのために用いられる神様の愛が注がれるということではないでしょうか。

 この物語は単に全財産を献金しなさいということではありません。私たちが献金する、神様に捧げるものは、神様の御用となることを信じて、それが恵みとなって、私たちを生かす糧となるようにと、そのように委ねることを教えています。主がその御子イエスキリストを通して、惜しみなく私たちを愛されたように、私たちも惜しみなく隣人を愛していくことができるように、自分の捧げた献金を通して、貧しい人、虐げられている人を覚え、共にこの世を生きていることを知ることです。そして私たち1人1人も、神様の御用によって、生かされていることを新たに覚えて、その恵みに共々生きてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。