2015年11月22日 聖霊降臨後最終主日「本物は残る」

マルコによる福音書13章24〜31節   藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 早いもので、枯葉が地面に落ちる季節となりました。目に見える形あるものには、いずれ終わりが来る、地面の落ち葉を竹ほうきで吐きながら、身近に終わりの時というものを感じるひと時であります。地面に落ちた枯葉は、ただ風に吹かれて、あちこちに飛び回っています。そんな枯葉を見ていると、決してそれは自分の姿と全く無縁ではないと思わされるものです。どんなに立派に振舞っても、自分を強く正しく見せようとしても、自分自身の足で立って、自分の力で生きているように思えても、でも本当の自分というのは、自分自身の存在というのは、実はあの風に吹かれ続けられている落ち葉のように、自分ひとりの力ではなく、何か目には見えない導きがあって、その導きのままに、今の人生を歩んでいるようにも思えます。とはいえ、自分の存在が枯葉のようだと言えば、それはただ虚しいことでしょう。誰もそんな姿は望んではいないかと思います。されど、終わりの時が来て、もはや自分一人では本当にどうにもならない、何もできないと感じたとき、自分の力や自分の意思を超えた大きな御力によって、守られ、生かされていると信じることができるのは何と幸いなことでしょうか。

 そんな季節の変わり目を感じつつも、教会の中では、教会暦の大晦日と言われる、教会暦の最後の日を迎えました。この一年の最後の時に読まれます福音書は、この世の終わり、終末のことについて記されている箇所であります。マルコによる福音書13章全体は小黙示録と呼ばれ、この世の終わりについて、主イエスが語っておられるひとつのまとまりの箇所です。そして、この13章の主イエスの言葉は遺言であるとも言われています。次の14章から主イエスの受難物語が始まり、十字架の死に向かって、一直線に突き進んで行かれるのです。主イエスご自身の終わりの時、一見私たちにただ絶望を語っておられるように聞こえるのですが、絶望のままに終わるのではなく、終末の只中にあって、その只中でこそ実現する慰めと希望を語っておられるのです。

 13章の冒頭で、主イエスと弟子たちが神殿の境内に入って行かれたとき、弟子のひとりが「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょうか。」(13:1)と言いました。それはユダヤの王ヘロデが自らの権力を誇示するために、46年もかけて、このエルサレム神殿を増築し、さらに立派にしたものでした。美しくも、磐石な作りである建物。それは並大抵のことでは崩れることはない、確かさというものを伺わせるのものでもあります。実物をみれば誰もがそう抱くでしょう。目に見えるそういう確かなものに、私たちは信頼を置くものなのかもしれません。しかし、主イエスは、その弟子の言葉に対して、はっきり言われるのです。「ひとつの石も残ることなく、あとかたもなく崩れ去ることはない」(13:2)そして、この世の終わりについて語ります。大きな災害や戦争が起こり、また人々を騙す輩が数多く現れると。そのような大きな苦難があるのだと言われます、そして今日の福音書のところで、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。(13:24~25)。と言われます。また「天地は滅びる」(13:31)と言われます。これらの状況は説明の仕様がないでしょう。はっきり言って、もうどうしようもない状況です。人間の力ではどうにもならないことが起こるのだと言うのです。そういう世界の終わり、終末について、私たちは恐れを抱きます。それは完全な終わりであり、消滅を意味するからです。私たちは平穏でありたいと願いますし、また、そんなことは本当に来るのかと、なかなか信じられないことだと思います。

 このマルコ福音書が書かれた前後の時代というのは、教会に対するローマ帝国の迫害が活発だった、苦難の時代でした。ペトロやパウロと言った代表的な弟子たち、指導者たちも次々と捕まり、殉教の死を迎えていった教会の時代です。目に見えるものでは絶望しか思い描けない状況だったでしょう。自分たちの力ではどうにもならない、道端に落ちている無力な枯葉のごとく、ただじっと耐えて、成り行きに身を任せる日々の歩みです。絶望しか抱けないその歩みの只中で、彼らは主イエスのこの遺言とも言える言葉に耳を傾け、その御言葉に聞いていたのだと思います。絶望の只中で、しかし、自分たちの歩みはその絶望のままに終わるのではなく、むしろこの絶望の只中にこそ希望の光はしっかりと射し込んでいる、すでに射し込んでいると、確信を抱いていたのだと思います。

 主はこの13章の中で「最後まで耐え忍ぶものは救われる」(13:13)とも言っています。それはなぜか。今日の箇所の中で、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(13:26)また、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(13:29)と言われるからです。ただじっと身構えて、暗い気持ちで未来の行くすえを見守るのではなく、この苦難の中、終わりの時に、実は人の子という救い主はもう近くにまで来ている、近くにまで来ていて、私たちを見捨てられることはないということです。そのように信頼できるということであれば、私たちの中には、目に見える形での決して確かなものというのはないのかもしれません。目に見える確かなもの、そこに強く頼れるものを見出すのかもしれませんが、目の前の絶望の中では、その望みさえも見出すことはできないほどに、弱さ、小ささだけが目に浮かぶものです。

 だから、自分の力で立っていけるほど強いかと言われると、実は立っていけないほどに弱い。かぎりなく弱く小さいものなのかもしれません。それが教会の姿、そしてこの私の姿ではないのか、そんな自分の姿が顕になる時でもあるのがこの終末の時ではないでしょうか。その弱さの前に、失望するかもしれません。しかし、パウロはこういうことを言っています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」(Ⅱコリント12:9)弱いのが強いと言っているわけではありません。弱いのは弱いままです。ただ迫害されるままに、その姿があるだけです。でも、わたしの恵みはと言います。それは神様の恵みです。その恵みは弱さの中でこそ、なおはっきりと全うされる。それは弱さの中にあってこそ、その恵みに信頼し、委ねることができるからです。神様の恵みという御業によって、私たちは生かされ、導かれている。枯葉のようなものであっても、そのような無力なものだからこそ、神様の恵みは十分に発揮されるのではないでしょうか。

 主は言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(13:31)教会を迫害していたローマ帝国の只中に教会は生き続け、最後にはこのローマ帝国が滅びました。すべての道はローマに通ず。そのように謳われていた目に見える巨大な力は残りませんでした。最初からあり、永遠にあるのは、神様への道、いや、神様から語りかけ、恵みを与え続けて下さる生きた道であるということです。神様の言葉は決して滅ばないからです。

 私たちが信じようが信じなかろうが、天地が滅びる終わりの日というものはいつかきます。それは盗人のように突然来ると聖書では言われています。しかし、それは私たち人間が考え、想像するような消滅を意味するものではなく、それは人の子という救い主がこの世界に再び来られる救いの完成、愛の完成の時であるということを御言葉は告げるのです。その終わりの時、終末のことをパウロはフィリピの信徒への手紙の中では、イエスキリストの日である言います。他の聖書箇所では主の日とも言われています。終わりの時、それは私たちが描くような終末ではなく、その時を支配しているのは救い主イエスキリストであって、神様の御言葉なのです。

 終わりという言葉はゴールであって、ゴールは目的という意味があります。目的は何か、今自分が抱えている様々な困難、苦難、その目的は何かと考えます。いろいろなゴールがあるかもしれませんが、最後まで残る、いや永遠に残るゴールこそが御言葉であって、神様の導きなのであります。詩篇にこう言う言葉があります。「あなたの御言葉はわたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯火」(119:105)。かつてエジプトの地で奴隷状態にあったイスラエルの民が、神様の御業によって解放され、約束の地を目指して荒野の中を40年間彷徨い続けた時、彼らは様々な困難や苦難、不平不満を神様にぶつけつつも、彼らの先頭に立って、彼らを導いたのは、雲の柱、火の柱という神様の御業であり、先の見えない暗闇の中で彼らを照らし導いていった光でした。その光が昼も夜も彼らと共にいて、彼らを約束の地へと導きのぼってくださったように、目に見える中で、ゴールを見失っても、そこで終わりではない、真のゴールへと主は御言葉の光をもってして、常に私たちを導かれるのです。

 暗闇の只中にあって、もう一歩も進めない弱さ、小ささの中にあろうと、私たちの新たな一歩を導き、歩みを与えてくださる光があるのだと主は約束してくださいます。この光が救い主として、到来することを私たちは来週のアドベントから、待ち望んでいくのです。この教会暦の最後の日から、また新しい年を迎えてまいります。新しい神様のご計画と恵みの内に私たちは歩んでいくのです。それは決して滅びることのない神様の御言葉によって導き、与えられる約束であり、恵みの時であります。恐れる必要はなく、この尽きることのない約束にこそ己の歩みを委ねて、終わりの時に向かって、今という歩みを誠実に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。