2016年3月27日 復活祭「新しい存在」

ルカによる福音書24章1〜12節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 イースターおめでとうございます。復活の喜びを喜びとして受け止めるようにと、私たちは四旬節、受難週を過ごしてまいりました。死の闇を受け止めて、復活の光を知るのです。光が闇の中で輝くように、主の十字架と復活は決して別々のものではなく、切っても切り離せないものなのです。死の闇の中で、命の終着点と思われるところで、キリストの復活を通して、新しい命のありかとなりました。私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書11:25)。死者の復活のために、キリストが神様によって復活させられたということです。そして、パウロの言葉を借りれば、このキリストは「復活の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」方であり、(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:20)私たちもこのキリストに結ばれることによって、復活の命に与るということが約束されているのです。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)とも言いました。だから、このイースター、復活祭はキリスト教教会の最も重要な祝祭で、一番古い祝祭なのです。このイースター、復活祭を中心に、クリスマスやペンテコステなど祝祭と教会の暦が作られていきました。

 さて、復活の出来事は、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」(1節)という背景から伝えられています。1節から読むと主語がないので、誰が墓に行ったのかがわかりませんが、すぐ前の23章のところ、主イエスが十字架場で死に、墓に葬られるところですが、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(23:55~56)」とありますから、それは主イエスの十字架上での死と埋葬の一部始終を見届けた婦人たちでした。埋葬と言っても、埋葬の習慣はありますが、この時はご遺体を亜麻布で包んだだけであって、防腐処置が施されたわけではありませんでした。その処置のために香料を塗るのですが、主イエスがお墓に納められた時は、それが塗られませんでした。おそらく、その時間すらなかったのでしょう。すぐに安息日が来てしまうからです。安息日は労働に当たることはしてはいけないという掟ですから、婦人たちは何もできないまま、その日を過ごし、安息日が過ぎて、ようやく主イエスのお墓のもとにいくことができたのです。

 婦人たちは埋葬の際に塗る香料を持っていきますが、丸二晩たって、香油を塗ったところで、ご遺体の腐臭は防げなかったでしょう。意味はなさなくても、婦人たちにとっては自分たちにできることはそれだけであるという悲しみの思いの中にあったかと思います。彼女たちはただ遠くから、主イエスの十字架を見つめることしかできませんでした。弟子たちはその場から逃げてしまっていましたが、彼女たちも、その一部始終を目撃しながら、何もできなかったのです。愛する主の無残な死を見つめ、さらにちゃんとした埋葬もできないまま、墓に葬られてしまいました。そのことがより一層彼女たちの悲しみを大きなものにしていたでしょう。ですから、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」もうだいぶ日が経ってしまったけれど、やっと香料を塗ってあげられる、愛する主が死に、その死に報いるように、埋葬してあげられるという思いが顕されているのです。

 しかし、墓に着いた彼女たちは、衝撃的な光景を目の当たりにします。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(24:2~3)他の福音書とは少し描き方が違いますが、彼女たちはその時途方に暮れていました。主のご遺体はどこにいったのか。そしてルカ福音書が描く状況から察すると、墓が荒らされ、誰かにご遺体が持ち去られたのではないのか。そのように彼女たちが考えてもおかしくはないでしょう。香料を塗ってあげられるどころか、ご遺体すらない、主の面影そのものが全くなくなってしまったのです。もうどうしていいのかわからなくなっていたでしょう。

 彼女たちが途方に暮れ、絶望する中で、神様の御言葉が聞こえくるのです。ふたりの神様の御使いが現れて、神様の言葉を告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(25:5~6)。ここというのはお墓ですが、ご遺体があるところ、人生の終着点、命の終着点と言われるこの墓にはいないというのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」、それは見当違いの場所を探しているということを意味します。あなたたちはなぜそこを探しているのかというこの御使い、主の言葉の問いかけは、もうだめだ、もうここにしか行き着くところがない、もうこの手段しか思い浮かばないという私たちの歩みに、私たちの目を真に開かれるきっかけとなります。神様、もうこれしかないではないですか、ここにしか自分たちのたどり着くところはないではないですか、その私たちの問いに、神様は、180度違う視点、見える世界の限界を超えて、見えない世界に触れさせようとするのです。今あなたが描いている全く真逆のところに答えは示されている。それがあなたを生かす道となり、糧となる。そのように主は私たちを導かれ、私たちの目を見開かれるのです。

 しかし、それは、全くすべてを別物に変えてしまうようなことではないのです。今までのあなたの歩みは無意味だった。辛くて苦しかっただけだろう。だから、これからは全く新しい道に導いてあげようとは言われないのです。辛い過去を断ち切って、全く別物の新しい未来に導こうということではないのです。主の復活とはそういうことを私たちに伝えようとしているのではないのです。御使いはこう言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」。(24:6~7)思い出しなさい、思い起こしなさいと言います。思い出す、思い越すということ、それは確かに過去のことです。過去に言われた主イエスの言葉です。ただここでガリラヤにおられたころと言います。ガリラヤ、それは彼女たちが主イエスと出会った場所です。このルカ福音書では、8章にその時の出来事が記されています。8章1節から3節にこう記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:1~3)神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる途上にあって、彼女たちは主イエスに出会いました。そして、その途上で主イエスは十字架と復活の予告をされました。彼女たちは時のことを思い起こしたことでしょう。ただ、主イエスが予告されたその時というのは、まさに神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる途上にあって、その大きな神様の目的の中で、予告されたのです。ですから、十字架の死によって、この大きな目的が潰えたわけではないのです。むしろ、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる途上にありつつも、その本質は主イエスの十字架と復活であり、死が終わりではないということ。それが神の国に示されている福音であるということ、私たちへの喜ばしい知らせであるということを伝えているのです。

 だから、主イエスは彼女たちと共におられるということ、ずっと共にいるのです。それは単にずっと姿が見えているということではありません。確かに主は死なれたのです。死んで彼女たちの前から姿を消されたのです。それは真実なのです。しかし、死を経験された主イエスのご意思、神様の目的は変わってはいないのです。彼女たちから主イエスは片時も離れてはいないのです。神の国における福音とはこういうことだ、この喜びの中にあなたがたも生きていき、今度はあなたがたがこの喜びを伝えていきなさいと、主は彼女たちを遣わされるのです。その答えがこの主の復活なのです。死によって、終わったのではない。死によって神様の救いのみ業が頓挫してしまったわけではない。死からの復活によって、キリストの内にある新しい命をもってして神の国における福音が明らかになったのです。主イエスは常に彼女たちと、そして私たちと共にあって、生きているのです。だから、思い出しなさい。それはただ過去の出来事をなつかしむのではなく、主が絶えずあなたがたと共にいるということをくり返し思い起こしなさいということを伝えているのです。

 様々なことがあります。喜びだけではありません、辛いこと、悲しいこと、傷つくこと、いろんなことを経験します。もう立ち上がれなくなることがあります。これしかないではないか、そういう思いに駆られます。されど、主はそれらのことをすべてなくして、解決してくれるという方ではないのです。どのような時にも主は共におられるということです。あなたの苦しみ、痛みを我が事として、担われる方なのです。それがあの十字架の死によって示されました。しかし、そのあなたを倒れたままにはされないのです、主はあなたと共にたおれたままに、傷の舐め合いをしてくださる方ではなく、復活して立ち上がったのです。そこで終わりではないのです。その究極の死というものでさえ、終わりとはされないのです。主の復活によって、私たちも立ち上がっていくことができるのです。死の先にさえ、新しい命が復活の初穂となられたキリストによって示されました。それは一回限りのことではなく、思い起こし、くり返し立ち起こされることなのです。

 聖書は旧約聖書、新約聖書と言います。約というのは、約束の言葉です。神様の約束の言葉が記されているのが、聖書であり、神様の御言葉です。ただ、道徳の本や、歴史の書、教訓の書という類のものではないのです。一見理不尽に感じることも書いてあります。しかし、これらはすべて神様の約束が記されており、神様のご計画が表されているのです。万事が益となるように、私たち一人一人を導いて、命を与えてくださる主が共にいてくださるのです。たとえ打ちひしがれ、傷つき、倒されてしまっても、それで終わりではないということ。むしろ、その闇の中にこそ、主が立ち起こしてくれる復活の光が輝いて見えてくるのです。キリストの復活と共に、私たちの新しい歩みが始まるのです。このことをくり返し思い出しつつ、今というこの与えられた歩みを共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。