2016年11月6日 全聖徒主日「キリストにある平安」

ヨハネによる福音書16章25~33節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 本日は全聖徒主日の礼拝を守っています。教会の伝統では、11月1日が「諸聖人の日」として守られていますが、「聖人」という概念は、16世紀の宗教改革以前の教会(ローマ・カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人(聖人崇拝)を指します。宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖人(聖徒)であると主張したので、プロテスタント教会では聖人崇拝と言う信仰はなく、ルターが言うようにキリスト者は全て神様の御前において「義人であり同時に罪人」でありますから、人間の善行や働きによって、信仰者としての区別が成されるという概念はないのです。

さて、この全聖徒主日礼拝におきまして、私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、お祈りを致しますが、召された方はどうなったのかという疑問があります。本日礼拝後に地下納骨室の祈祷会で読まれます聖書の箇所でもありますが、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とパウロが言いますように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されています。

 だから私たちは、先に召された故人を供養し、故人の平安を祈り求めるためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今ここに招かれているのです。そして、これは生者と死者の交わりのひと時ではなく、死の壁を打ち破られたキリストによって、先に召された者たちと私たちは結ばれ、共々今この礼拝の恵みに与っているのです。同時に、神様の御言葉を聞いているのです。

 さて、今日与えられた福音書の御言葉は、13章から続く主イエスの告別説教と言われています。いわゆる遺言と言われるものです。この告別説教の最後の部分にあたるのが今日の聖書箇所です。ここで、主イエスは27節で「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」と言われるからです。愛するということは、信頼するということであり、大切にするということです。また赦すということでもあります。この時、弟子たちは、将来における自分たちへの迫害の予告を主イエスから聞かされていました。自分たちを迫害するものは、主イエスを受け入れない世の力です。世の中の価値観と相容れないものがあるのです。弟子たちは、この世を生きつつ、キリストに属して生きていくものですから、その迫害を免れて、迫害や苦難、困難と無縁の世界に生きていけるという保証はないのです。そのため、弟子たちは動揺し、不安を覚えていたことでしょう。

 その只中で、主イエスは神の愛を伝えるのですが、この神の愛はただ弟子たちだけに向けられたものではありませんでした。同じヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が実現するために、主イエスはこの世に来られて、神の愛が私たち一人一人に向けられているということと、この世を裁くためではなく、救うために、それが愛するためであると言われているのです。この世は容赦なく弟子たちを迫害します。また現代の私たちも、世の価値観の中にあって、苦難や困難を抱えて生きております。ただここで、主イエスはこの世を生きるあなたがたのために処世術や賢さを授け、教えているのではなくて、神様の御心を語っているのです。私はあなたがたを迫害する世を裁き、裁きと滅びをもってして支配するためではなく、愛をもって支配するのであると。あなたがたは世から迫害を受け苦しむ。しかし、憎しみを向けて生きるのではなく、愛を向けて、愛の内に生きよと言われる。同じ告別説教の中で「互いに愛し合いなさい」(15:12)と教えているのはそのためです。それは、愛において、主イエスがこの世に勝利されることを約束しているのです。

 しかし、28節から主イエスはこう言われます。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」(28~32)今、世を去って、父のもとに行く、というのは、弟子たちの別れであり、主イエスがこの世で死ぬことを言っています。弟子たちとずっとこの世にいるのではなく、死んで、父のもとにいくのだと。それで弟子たちはまた「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と告白し、主イエスはその言葉を受け入れますが、やがてあなたたちは私を見捨てて、逃げ去ってしまうであろうと言われるのです。

 弟子たちは主イエスを愛していましたが、主イエスが捕らえられて、その不安と恐れから主のもとから離れていきます。主を愛すると行って、どこまでも従っていこうと決心した彼らが最後の最後で、主の下から離れてしまうのです。そして、弟子たちは十字架の死を迎えた主イエスものとから逃げさり、家に鍵をかけて皆でひきこもります。(20:19)死の力を前にして、弟子たちは全く無力となり果ててしまうわけです。しかし、主イエスの約束は、父のもとにいくということでした。天の父なる神様の身許に私はいくのだと。それは、得体の知れない世界に行くのだと言っているわけではなく、本来帰るべき場所に、私は帰るのだと言われるのです。それが、世を去って、行くことでした。死を通して、天の父の下に行くということなのです。主イエスは死を避けて、ずっとあなたたちといっしょにいると約束したわけではなく、死を通して、死に終わるのではなく、その先にある天の父のもとにいかれることを約束されたわけです。そして、死を迎えるときでさえ、天の父は共にいてくださるから、私はひとりではないと言われるのです。

 最後に「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)と言われます。あなたがたを不安に陥らせるためではなく、平和を得るために、それも私によって、ということですから自分の内にある安心感ではなく、キリストにある平和、または平安であり、キリストから賜る平和です。また、悲しみや苦しみがない平安を与えるという意味ではなく、それらの只中にあっても、私はあなたと共にいて、あなたを愛し続ける。決してあなたを見捨てはせず、あなたの苦しみ、悲しみを私は共に負っていくということの約束であり、平安なのです。あなたがたは世で苦難がある。そのようにはっきり言います。その世の苦難の最も大きな力が死の力ではないでしょうか。いずれ、誰もが通る死の時、その死の力の前に私たちは無力であります。死が人生の終着点であると思うことと、それが永遠の別れであることに深い悲しみと恐れを抱きます。その悲しみは愛する人の死を経験された後も、続きます。時間が経てば、その気持ちが段々薄れていくとしても、なくなることはないのです。

 主イエスはその私たちに平和を賜る方です。その悲しみは決して一人で背負うものではないと。あなた一人で抱え込み、背負うものではないと。主イエスもまた死の世界に行かれたかたなのです。死の悲しみを避けたのではなく、それをご自分のこととして、担われる方だからです。

 でも、それは悲しみのままにうずくまっていなさいということではありません。勇気を出しなさいと言われます。今、再び悲しみの中から立ち上がらせる命の言葉を私たちに告げられるのです。この「勇気を出しなさい」という言葉は、主イエスが湖の上を歩く場面、弟子たちが船に乗り、嵐の中で主イエスが湖を歩き、弟子たちに言った言葉の中にも出てきます。(マルコ6:45~52)「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。(マルコ6:50)安心しなさい、これが「勇気を出しなさい」という言葉と同じ言葉です。苦難があり、自分の心の中には安心感などない。その中で主が「安心せよと言われる。」私だ、恐れることはないと。私がそこにいると。

 「わたしは既に世に勝っている。」と言われます。世に勝っている、それは死の力に勝り、死の力を打ち破って、復活の命を約束している言葉です。それもここでは「既に」とあります。いつぐらいか、後のことなのかということではなく、まさしく今、既にということです。今、既にあなたのために、私は世に勝っていると。どのようにして勝ったか。世を徹底的に愛することによって、死に勝利した神様の御心です。その御心が十字架の死を超えた復活の出来事なのです。勇気を出せ、安心せよ、この私が共にいる。死の力が強大で、深い悲しみに合うかもしれない。でも、その悲しみは私の悲しみであり、共に負う。でも、それで終わりではない。その悲しみからの一歩を私はあなたに授け、あなたと共に歩んでいくと。私の愛から、あなたが離れてしまうことはないのだと約束されるのです。パウロもローマの信徒への手紙8章37節から39節で言います。
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 今、愛する人の死を覚えて、この場に集っている私たちは、愛する故人のお支えを覚えつつ、その故人がこのキリストと共にいることを覚えて感謝し、この世を生きてまいります。勇気を出しない、安心しなさいと言われる主によって立ち起こされ、このキリストと共に歩んでいくのです。このキリストから平和を、平安をいただき、この平安のうちに共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。