2016年11月13日 聖霊降臨後第26主日 「次の世への約束」

ルカによる福音書20章27~40節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書の中で、サドカイ派と言われる人たちが、主イエスに議論を仕掛けています。「復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」とありますから、復活があることを肯定している人々、またはそのような教え、風潮がユダヤの世界の中に広まっていました。その中で自分たちは復活を否定する立場にある。復活を否定するが、こういう時どうするかということを問題とし、様々な人達と議論をしていたのでしょう。彼らは仮に復活があったとして、その復活の時、私たちはどうするべきか、どの教えに従うべきかということを問うています。

 それは、結婚に関することでした。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。この結婚の制度はレビラト婚と言って、その掟が申命記25章5節に記されています。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」(25:5~6)その家を絶やさないようにするため、妻はその家の一族の者と再婚しなくてはならないということでした。この掟に従って、サドカイ派の人たちは、7人の兄弟に嫁いだある女性のお話をします。この女性は長男と結婚しますが、長男が先に死んでしまいます。レビラト婚の慣習に従って、次に彼女は次男に嫁ぎますが、次男も早死にし、そして三男、四男と続き、とうとう最後の七男まで、この女性より早く死んでしまいます。最後にこの女性が亡くなります。彼女は7人の男性と夫婦関係になりますが、男性の兄弟から見ればいずれも一人の妻を迎えただけです。女性が7回も結婚をして、夫を変えなければいけなかったのは、子供を残すことができなかったからです。だから、掟に従って7回も結婚しましたが、彼女は心から結婚の喜び、子宝に恵まれる喜びを感じることはできなかったでしょう。悲しみと苦しみの連続であったかと思います。サドカイ派の人は何気ない例え話の中で語っていますが、そこには彼女の悲しみや苦しみも同時に現されているはずです。

 子どもを残さず、女性も亡くなりました。彼らが主イエスに聞きたかったのは、その後です。「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」これは掟に書かれていないことですが、彼らは復活の時も、掟が定めているような人間の世界が続けられるという前提のもとで主イエスに訪ねます。主イエスの答えは、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(34~36節)と言われます。主イエスが言われるのは、この世の習慣が次の世において、そのまま続くことではないということです。私たちの習慣や価値観の延長線上に復活の時がやってくるわけではないということです。

 ところで、主イエスの言葉は、ただ彼らの質問に答えているだけはありません。天使に等しい者であるとか、神の子だからということを言われます。死んで終わりになるのではなく、そういう人となる。そういうものとして、生きることとなる。それで終わりの方には、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(38節)と言われ、人は神によって生きている、すなわち命の根源は神様にあるのだと言われます。言い換えれば、神様によらなければ、生きるものではないということでしょう。

 復活の時、神様の次の世への約束は、この世の人間的な習慣にもはや縛られる必要はないと言っているだけではないのです。人は神によって生きるものであり、神との交わりの中で生かされる。天使に等しい者、神の子というのは、まず神様に属するものとしての命の生があると言えるでしょう。それはまた神様の愛の中で生かされているということです。そして何よりも、そのことが明らかになるのが、主イエスキリストが死んで、やがて復活するという確かな約束に基づいているのです。

 先程も少し触れましたが、7人の夫をもった女性の結婚生活はどうだったのか、子宝に恵まれなかった苦しみ、悲しみがあったのではないかと言いました。この掟に縛られて、ただその原則だけを守ることに忠実であったりするところに、人間の愛情が行き交い、生き生きと生きていけるのだろうかと考えます。結婚という神様の祝福の恵みに喜びを抱いているのか。ただ子孫を残し、家を存続させることにこだわり続けていたサドカイ派の人々の中に、そのような思いはあったのでしょうか。

 このレビラト婚に関連するお話が他にもあります。旧約聖書の創世記38章にユダとタマルのお話があります。ユダはアブラハムの孫のヤコブの息子で、イスラエルの12部族のひとつ、ユダ族の祖先にあたる人です。主イエスの時代のユダヤ人は、このユダ族の血筋を最も深く受け継いでいます。あのダビデ王もこのユダ族です。タマルという女性はそのユダの長男と結婚しますが、その長男は先に死んでしまい、レビラト婚に従って、今度はユダの次男と結婚しますが、この次男もすぐに死んでしまいます。そして、彼女は三男のシェラという人が成人したら結婚する予定でしたが、相次ぐふたりの息子を亡くしたユダはタマルを疫病神だと信じて、彼女を実家に返してしまい、シェラから遠ざけます。シェラが成人したあとも、ユダは嘘をつき、タマルと結婚させません。その結果、タマルはやもめとなり、厳しい生活を送っていくことになります。しかし、その後ユダの妻が亡くなり、喪の期間が明けた頃、タマルは遊女の姿となってユダを誘い、ユダの私物であるひもの付いた印章と杖を預かります。ユダはタマルだとは知らず、遊女の姿となったタマルと関係をもって、彼女との間に子供をふたり設けますが、もちろんユダはその事実を知りません。三か月ほどたって、タマルが姦淫の罪を犯し、身ごもったとの知らせがユダのもとに入ると、ユダは怒って、焼き殺してしまえと言いますが、タマルはユダの使いのものに、「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」と告発し、姦淫の相手がユダであることがわかってしまいます。ユダは自らの罪を告白し、タマルとの関係は持ちませんでした。タマルはふたりの息子を産んで、育てていきます。ドロドロとした物語です。

 この物語において、誰が正しく、正しくかないかというより、彼らもまた掟にこだわり、嘘を隠し、それに振り回され続けた人間の苦しみと悲しみが描かれています。そのような罪の姿がそのままに描かれています。体裁を保つために生きているのか、ただ子供に恵まれれば良いのか。私たちもまた何をもってして生きているのかということを考えます。

 ただ、このユダとタマル、そしてそのふたりの間に出来た子供は、実はイエスキリストの系図の中に名前が記してあります。しかも、わざわざ女性の名前であるタマルの名前まで記されています。これは非常にめずらしいことです。その意図ははっきりと罪の事実が記されているということでしょう。主イエスがその人たちの子孫として生まれたということは、その人間の罪の只中にお生まれになったということ、罪を背負って生かれるということを表しています。しかし、主イエスの誕生を予告した天使は、この主イエスが救い主として「罪からの救い」をもたらすキリストであると告げるのです。そしてその名はインマヌエル、神は私たちと共におられる、つまり罪のあるがままに、私たちと共におられ、私たちを愛し、共に生きて下さる方なのです。

 天使に等しい者、神の子とされるというのは、神様に属するものとされる、つまり罪が赦され、神様の愛の内に迎えられ、生きているものです。罪故に裁かれて、死んで終わりではないのです。私たちはこの世にあって、そここそ掟などの人間の習慣の中で生きています。喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみも背負って生きています。ユダやタマル、またサドカイ派の人や、7人の夫をもった女性と同じような体験をして生きています。罪を犯して、罪の上にたって自分の生を保っている姿もあるのかもしれません。それは自分が自分のために生きるからです。しかし、私たちが神によって生きるものとなるために、主イエスは十字架に死なれ、復活しました。私たちが罪赦されて、神の愛のうちに生きるためです。

 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱでこう言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)死んで復活してくださった方のために生きる、それは復活の命をもたらすキリストの内に私たちが生きていくということ。正しさを追求し、自分の正しさに固執して相手を裁く生き方ではなく、相手を赦し、愛する生き方です。それが神によって生きているということです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。