2016年11月20日 聖霊降臨後最終主日 「忍耐は命を耕す」

ルカによる福音書21章5~19節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 ハロウィンが終わりますと、世の中はもうクリスマスムードです。クリスマスの商品が店頭に並べられ、街中はきれいなイルミネーションで覆われます。すぐそこのけやき坂にもイルミネーションが光輝き、連日多くの方が鑑賞しに来て、賑わっています。そのクリスマスの後の12月31日に大晦日を迎え、新年を迎えます。教会でもクリスマスに向けて準備のひとときを過ごしています。そして今日はクリスマスの飾りつけを行います。しかし、教会暦の中では、クリスマスの前というと厳密には変な表現ですが、その前に大晦日を迎えます。それが今日の聖霊降臨後の最終主日、教会暦の最後の日です。教会の大晦日と言われる日です。そして、来週からの待降節、アドベントから教会暦は始まるのです。

 新しい暦、新しい時を迎える前に、その直前に終りを経験します。終わりがあるのですから、終わりと向き合わなければなりません。終わりを迎えて、クリスマスの喜びを迎えるのです。ただ、終わりというのは、単なる終着点だけを意味する言葉ではありません。英語でENDと言い、辞書で調べれば分かりますが、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成する。意味があるわけです。これが終わりを迎えることの本質です。

 それで今日の福音書は、世の終わり、言わば終末について主イエスが語っている箇所です。そう語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」」ということでした。神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。ローマ帝国の支配の中にあって、人々の生活が大変厳しい時代にありましたが、その只中で、このエルサレム神殿は自分たちユダヤ人にとっての象徴である以上に、アイデンティティーとも言えるものでした。このエルサレムの神殿に、多くの人が集って、賑わっています。見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほどに、この神殿は人々の拠り所となっていました。それは目に見える確かなところ、信頼できるものです。建設に46年もかかった神殿だと言われていますから、人々が見とれるのもごく自然なことでしょう。

 ところが、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。今ある確かだと思うものがもろくも崩れ去ってしまう日が来ると。シンプルな答えです。そう確かに、どんな建物であっても、どんなに目に見えて立派で確かなものでも、いずれは朽ちて無くなってしまうということを私たちは知っていますし、そのことを経験しているかと思います。問題は、それが今ではなく、ずっと後のこと、いやもしかしたら自分が生きている時には、絶対に起こらないだという私たちの心の有り様です。今、あればいい、今、崩れなければいい。今がよければということです。確かに、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。でもそんなことがいつくるのかもわからないし、来たらそれですべてが終わりなんだから、考える必要もない。今ある確かなことに目を向けて、楽しめばいいじゃないかと。確かに、大切なことは今をどう生きるかということですが、しかし、それで終わりのこと、終末とは無縁の世界に私たちの命があるわけではないのです。盗人が突然くるかのように、その終わりの日は来ると主は他の箇所で言われます。私たちは終わりに向かって歩んでいます。でもそれは、目的があり、完成に向かっての歩みなのです。

 パウロが終わりの日のことをキリストの日であると言っているように、それはキリストが再び来られて、神の愛を完成させる時です。それが終わりの時であり、終わりに向けて歩んでいる私たちへの希望の御言葉であり、約束です。この約束の内にあって、私たちは生きていくのです。

 ただ、主イエスはここで終末が来る前のことも述べています。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」(8~9節)惑わすもの、煽るものが大勢現れて、人々を混乱させる。そういうことが起こると。そして更に、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(10~11節)と言われ、所謂終末の予兆と言われる内容を語ります。具体的にそれらの争いや天変地異が何を現すのかはわかりませんが、それらが終末の前に来ることは確かで、もう私たちの手には負えない状況であることがわかります。そして、更に主イエスはその争い、天変地異が起こる前のことを言います。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」(12節)と。混乱があり、戦争、天変地異があり、そして終末がある。ただ、今起こっていることがある。迫害され、牢に入れられているという現実です。

 このルカ福音書を含めた他の福音書にも言えますが、今日のこの福音書の箇所は、より鮮明に福音書が書かれた当時の教会の姿を描いております。まさに迫害の真っ只中、牢に入れられ、いつ命を失ってもおかしくない過酷な状況です。それがリアルに示されている。聖霊降臨が起きて教会が出来、多くの人々がキリスト者になって、教会が大きくなっていく、そのようなことを喜んで記しているだけではないのです。そのことと同時に起こっていることがある、いや矛盾していると思われるかもしれませんが、同時に迫害の状況下にあり、命の危機に瀕している状況なのです。まさにその只中で教会は大きくなり、キリスト者は増えていったのです。まるでそれは、現代の教会、私たちの教会生活とは何ら関わりがないことのように思えます。建物がいきなり壊され、いきなり捕まって連行されるということはほとんど考えられないことです。だから現代の教会は迫害とは無縁の世界の中にある、豊かな状況の中にあると聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか。この迫害の正体は、目に見える確かな者だけでなく、私たちの命に、もっと掘り下げて言えば、魂に関わることであると言えます。私たちの魂を脅かすもの、本当の意味でその正体は無気力であり、無関心ではないでしょうか。または自分の正義、自分の正義を強調する故に、他者を裁いてしまう思いです。迫害の最大の敵は、もっと身近にあるものです。

 教会の中で言えば、教会が世に仕え、隣人を愛する教会ではなく、伝統と文化を守ることに固執し、世の事柄に無関心になり、自分たちの教会のあり方こそが正義であるということです。もちろん教会は世に迎合し、時代にあった教会づくりをすれば良いということではありませんが、教会は世を否定するのではなく、世に仕えるのです。そのために、主の御心を常に訪ね求め、祈り、悔い改めて主の下に立ち返っていかなくてはならないのです。教会が大きいとか小さい、人が多い少ないではなく、一人ひとりが主から語られていることなのです。それを確かめることが毎週の礼拝であると言えます。

 状況は違いますが、主の言葉は今の私たちに語られています。迫害下の中にあって、その絶望としか思えない状況の中で、教会は主の言葉を思い起こして、書き記し、そのこの御言葉の内に希望を見出して歩んでいったのです。その歩みとは証しをすることであると言います。証しをするとは、キリストのために生きることであるとも言えますが、これは元は殉教をするという意味です。殉教と聞くと、何か英雄的に殉じた人々という思いがありますが、単にそういう意味ではなくて、キリストのために生きて、その命に生きることによって、無関心、自分の正義を克服し、死を克服することであると言えます。そして主イエスは言われます。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(14~15節)また18節では「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と言います。これはある意味では、反対者や対抗するものに対して、髪の毛の一本ですら、自分の力と知恵では守りきり、克服できないことを言っています。要は無力であり、無防備、裸の自分の姿があるだけです。本当は弱く、小さい自分しかいない。だから、目に見える確かなものに頼ろうとするのでしょう。しかし、主イエスは、それらのものでさえ、いずれ終わりがくると言われ、有限、限界を語ります。死が訪れるわけです。だから、主の約束を私たちは忘れてはなりません。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからと約束し、髪の毛の一本ですら、決してなくならない、なくさせないという主の愛の御心を残してくださるからです。この御心だけはなくならず、私たちの只中に残り、今も働いているのです。その御心の中で生きていく、いや生かされているのです。その約束は主の十字架と復活によって、確かなものとなったからです。死から逃れず、死と向き合い、死を迎え、死で終わったのではなく、死を通って、新しい命を獲得されました。あなたがたはこのキリストの与えてくださる命に生きているのであると、主の御心を通して先人の教会は私たちに証をしているようです。

 主は最後に、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(19節)と言われました。我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢です。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。パウロはコリントの手紙Ⅰ13章で、4と7節でこう言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」ですから、そのように自分を愛し、支えてくださる主に信頼して、今を生きていく、隣人に仕え、愛していく歩みが証しをすることであり、与えられた命を耕して、終わりに向けて歩んでいくのです。終わりにキリストがおられます。キリストが来られ、神の愛が完成し、成就する。それが終末の目的なのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。