2016年11月27日 待降節第1主日「小ささ、弱さの只中に降り立った王」

マタイによる福音書21章1~11節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日から待降節、アドベントの季節となり、新しい教会暦を迎えました。クリスマスの前の4週間をこのアドベントと言いますが、アドベントはただクリスマスを、待つだけの準備期間という意味ではありません。アドベントというのは、ラテン語で到来する、やってくる、近づいてくるという意味です。私たちが待つ、待たないに限らず、私たちの方に救い主イエスがやってこられるのです。その救い主イエスキリストを待ち望み、このキリストをお迎えすることがアドベントの意味です。

 では、ただ待つということではなく、このキリストを待ち望み、お迎えするということは、私たちに何を表しているのでしょうか。アドベントの季節になりますと、典礼色が紫になります。この典礼色の色にはそれぞれ意味がありますが、紫は待ち望むという意味の他に「悔い改め、懺悔」という意味があります。悔い改めることは、もちろん典礼色が紫でない時にもします。それは毎週の礼拝ごとに、もっと具体的に言えば、ルターが95箇条の提題の中で「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯である」と言っているように、常に悔い改めて、神様の下に立ち返っていくからです。だから、このアドベントがただ待つということではなく、やってこられるキリストをお迎えするということは、自分の罪を自覚し、キリストの前に罪を告白して、キリストのもとに立ち返っていく悔い改めを意味します。でも、キリストの方から来てくださるのに、なぜ罪を自覚し、悔い改める必要があるのかと考えるかもしれません。自分の悩みや痛み、悲しみ、困難をすべて解決してくれるために来てくださるのではないのか、だから救い主として来てくださるのではないのかと。

 しかし、そのように期待することは的外れであると言えます。期待はやがて、ユダヤの人々と同じように、主イエスを十字架につけろという大合唱に変わり、失望へとひっくり返るからです。2000年前に生きていたユダヤの民も、救い主にそのような期待を抱いていたからです。

 当時のユダヤの民に共通する悩みや痛み、困難な出来事は、ローマ帝国による支配の中で、生活が圧迫されていたことです。税金は搾取され、言論は規制され、常に街中にはローマの兵隊がいて、我が者顔で歩き回り、イスラエルの地を支配していました。ユダヤの民にとって、このローマ帝国の存在は、権力者という存在です。権力において、民を支配し、屈服させているわけです。そこでは常に、小さきもの、弱きものが犠牲になっています。彼らの不義を訴えても、権力者はその権力をもって、そのことを覆い隠し、自分たちを守ろうとします。結局泣き寝入りになるわけです。今の時代で言えば、いじめの問題や虐待や、過労死の問題などが考えられます。もっとたくさんありますが、その権力者の体質は変わることがないのです。

 ユダヤの民は、その権力者であるローマ帝国を倒し、追い出してくれる力強い存在を待ち望んでいました。それがメシアの存在です。メシアというのは、元は油注がれたものという意味で、イスラエルの王に任命される時に、油を注がれて聖別します。その最初の王はサウルで、サウルは王として、イスラエルの軍隊を率いる軍の最高司令官となります。その次のダビデ王は、その強大な軍事力をもってして、周辺諸国と戦って勝利し、イスラエルの国を豊かなものに築きあげました。ちなみに、エルサレムがイスラエル王国の首都とされたのは、このダビデの時です。

 人々はそのダビデのような力強い王様、メシアを待ち望んでいたわけです。今日の福音書は、その人々が期待している王様の入場を指し示しているかのような場面が描かれています。主イエスがエルサレムに入場する箇所です。主イエスは子ろばに乗って、人々の前を入場していきました。8節の「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」という行為は、王様を迎える時のものです。人々は主イエスを王として迎えているわけです。そして群衆は叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(9節)ホサナというのは、救ってくださいという意味です。王である主イエスに期待をこめた懇願です。あのダビデのような力強い王が私たちのもとにきてくださったという期待です。しかし、この時の主イエスの姿は、旧約聖書の預言者の言葉通りのものでした。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」お前の王、あなたの王がくる。どんな王か、柔和な方とあります。柔和というのは、優しいという意味ではなく、貧しいとか、低くされたという意味です。王様なのに、貧しくて、低いのです。その王様は軍の最高司令官のはずなのに、軍馬である馬ではなくて、農耕に使用される弱々しい家畜である子ろばに乗ってくるというのです。それがお前の王、やがてあなたがたのもとにやってくる王だと言うのです。主イエスの姿は、その約束された王の姿でした。はっきり言って、そのお姿は彼らの期待、また私たちの期待を裏切るものであると言えるでしょう。力ではなく、弱さを選んだものに、何が期待できるのか、そもそも、それは王と呼べるものなのかどうかということです。王である方を迎えるということは、私たちは王に仕えるものとなります。ところが、この王の姿は、仕える私たちより、小さく、弱い存在のように思えないだろうかと思います。

 先ほど読みました旧約聖書の預言者の言葉の引用部分についてですが、これはゼカリヤ書の言葉から来ています。9章9節です。10節まで読みます。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

 この王は、まず神様に従うものであるということです。神様に仕える王なのです。ようするに、神様の御心に従う仕える王であって、人間の期待に応える王ではないのです。そして、10節で「エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。」とありますように、この王は平和の王として来られるのですが、それは武器や兵器によってではなく、むしろ「軍馬を絶ち、戦いの弓は絶たれ」とあるように、力の象徴である武力を絶つことによって遂げられる平和なのです。

 だから、エルサレムに入場してきた時の主イエスは、その平和をもたらす王としての姿に重なっているのです。武力を放棄した王であると言えます。しかし、この平和の王は、武力を放棄するのですが、単に戦いから避けることを目的としているわけではありません。主イエスは王として、確かに戦うために私たちの只中に来られるのです。

 先ほど、子ろばのことを「農耕に使用される弱々しい家畜」と言いましたが、そう、この子ろばにはちゃんと役割があるのです。農耕に使用され、畑を耕すという役割です。何もしない、平穏無事ということではないのです。それで、今日の第1日課のイザヤ書2章4節にこうあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ただ、剣や槍を破棄するということではなく、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするのです。鋤と鎌、いずれも農耕用の道具です。子ろばも、その平和の王が入場するにあたって、用いられました。

 ようするに、主イエスの平和の王としてのお働きは、ただ戦いのない状態のことを指しているのではなく、平和を耕すためのお働きであると言えます。主イエスご自身が平和をもたらすために戦われるのです。それは剣や槍、軍馬と言った武器、兵器によってではなく、平和を耕すことによってもたらすものです。作物が実るように耕すことであって、滅ぼすことではないのです。

 私たちはこの平和の王である主イエスをお迎えするのです。主は平和を耕してくださいます。それは迎える私たち自身をも耕してくださる主の平和の御心です。私たちに平安を与えてくださるために、主は来られるのです。

 主が耕して与えてくださる平安とは、私たちの中にある罪からの救いです。罪の赦しという実り、恵みを与えてくださるために、主は私たちの罪の只中にこられたのです。そのために、主イエスは私たちの罪と戦ってくださるのです。罪ごと私たちを滅ぼすためにではなく、罪あるままのこの私達の命を耕し、生かしてくださるかのように、主は私たちの罪と戦われ、私たちに平和を与えられるのです。この平和を耕される王を迎える私たちもまた、主の平和のために、罪と向き合って、罪と戦い、平和を耕すために、この世を生きていくのです。

 この世を生きていくとき、平和とは真逆の戦乱、または不安の只中にあるかもしれません。でも、それは一人で立ち向かっていくことでもなく、また武器や兵器という目に見える力に頼ることではなく、着実にその闇の中にこそ平和の光をもたらしてくださる方が共にいてくださり、その方と共に歩むことです。戦乱や不安とは無縁の別世界に憧れて、そこに花を植えて、花を咲かせることではなくて、まさに戦乱や不安の中にあって、そこに花を植え、花を咲かせてくださる方が私たちの王としてきてくださるのです。この王を迎えるために、自分の罪と向き合い、王である主イエスを送ってくださる主なる神様の下に立ち返りましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。