2016年12月4日 待降節第2主日 「荒野を見つめる」

マタイによる福音書3章1~12節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 外にあるクリスマスツリーのもみの木ですが、実は今年から新しいものに変えました。前のもみの木は、おそらく10年近く使っていたでしょう、もう全体的にすかすかで、みすぼらしかったので、新たに植え込みました。それで、植木屋さんに来ていただき、大きな植木鉢に新しいもみの木を植えこんでいただきましたが、その時、水やりについて説明をいただきました。夏場は3日に一回の頻度でバケツ一杯分、冬場は5日に一回の頻度でバケツ一杯分です。それを一気に水やりするわけです。バケツ一杯分は思ったより、水の量がありました。いつもは、ホースのシャワーで水をやっていたので、その水の量の多さには気付かなかったのですが、バケツ一杯分の水を一気にやると、確かに植木鉢の奥深くまでちゃんと水が染み込んでいくのだなというのを実感しました。

 それで今日の福音書はバプテスマのヨハネが荒野で悔い改めの洗礼を人々に授け、来るべき救い主を人々に宣べ伝えている場面です。今日の聖書日課にも記されていますが、このヨハネは荒野を拠点に活動していたエツセネ派という団体に所属していて、そのエツセネ派というのは、修道院生活に近い、禁欲で厳しい戒律を守っていた団体だと言われています。4節で「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」というのは、その習わしでしょう。その周りは荒野という環境の中にありました。

 荒野というのは、砂漠とは少し違う場所を指しますが、乾燥している地で、ほとんど水が降らない乾いたところです。作物もほとんど実らないのは、それこそ土の奥深くに養分が行き渡らないところでしょう。この前聖歌隊の練習の時に、安藤先生が荒野についてこういう話をされていました。荒野でパンをそのまま置いておくと、すぐにトースターになってしまうと。そうならないように保つには、水で濡らした付近をパンの下に敷いておかないとだめみたいです。それほど、乾燥しているところなのでしょう。それで、なぜ荒野の話題になったかと言いますと、今度クリスマスイブに歌う曲の中で、この言葉が出てくるのです。曲名は「ああ、主よ、聞いてください「平和を地に!」というもので、1995年にフランス人によって作られました。曲の解説には「原作は、さまざまな出来事に影響されて生まれました。バルカン半島の民族紛争、オクラホマ市の爆破事件(1995年)の余波、児童虐待から見えたこと、世界全体の状況など。それら、すべての恐怖の唯一の望みは神が与える希望です。」とあります。それで、その4番の歌詞がこういうものです。「この世の苦しみ知り尽くす主 荒れ地にみ業が染み込むように。」荒地とありますが、荒野のことです。この荒地にみ業が染み込むという表現があります。本当に少量の雨しか降らないので、土の奥深くにその養分が奥深くに行き渡らない。でもそこに、み業、神様のみ業が染み込んでいくようにと歌う。そのみ業をもたらす主は、この世の苦しみを知り尽くす主で、主ご自身、その苦しみを担われる方として、私たちのところにやってきてくださるのです。

 ですから、本来ならこの荒野という場所は、神様のみ業や出会い、恵みを感じないというイメージのあるところです。神様との出会いを求めるなら、人々はエルサレムにある神殿、または各地にあるシナゴーグと言われる会堂にまず向かいます。立派な装飾品が飾られていて、祭司がいて礼拝を司り、人々が祈り、人々が行き交う場所です。そういうところに、神様がいる、神様の恵みがあるのだと実感する。そこだけは特別だと感じるのです。しかし、ヨハネは違いました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」(3節)と旧約の預言者イザヤの預言を通じて、この荒野の只中に、主が来られるというのです。これは誰しもが予想できなかった驚きです。そんなところにまさか神様が、神様のみ業が染み渡るものなのかと。

 そのきっかけをヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と言いました。天の国というのは、神様のご支配のことです。その支配がもう近くまできているから、あなたがたは悔い改めよ、すなわち罪を告白して神様のもとに立ち返りなさいと言います。それで、このヨハネが属していたエツセネ派は水を用いて、沐浴の儀を行っていたと言われています。水による清めです。この清めは、ユダヤ教への改宗ということを意味していましたが、ヨハネの言葉はそれが単なる改宗ということに留まりません。つまりそれは、悔い改めるということを強調しているのです。

 それでこのヨハネの洗礼を求めて、多くの人が集まってまいりますが、その中にはファリサイ派やサドカイ派の人々と言った人たちも来て、洗礼を受けるのです。そしてヨハネは彼らにこう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。(7~8節)聞いた方は大変驚いたのではないかと思います。ファリサイ派やサドカイ派の人々というのは、人々の模範ともなるべき人物で、信仰深い、敬虔な人々だと言われていたからです。もちろん、彼らは悔い改めるということを知っていますし、それを行っていたでしょう。にもかからず、差し迫った神の怒りの到来を彼らは告げられるのです。彼らの中には、洗礼を受けて悔い改めれば、その怒りから逃れられると思っていたのでしょう。さらに、ヨハネはこうも言います。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(9~10節)アブラハムというのはユダヤ人にとっては民族の父であり、また信仰の父にあたります。この父の子供であれば、自分たちは神様の救いに近いところにいるという実感がありました。だから、それは、自分たちはアブラハムの子孫であるから、ちゃんと神様を賛美して、悔い改めていれば、神様からは救われる、いやもう既にそのような救いの確信があったということでしょう。されどヨハネは、神様はそのアブラハムの子孫であるあなたがたを、こんな石っころからでも作ることができる。あなたがたはその石ころにすぎないことに気づき、アブラハムを祝福した神様がどんな方なのか、それを知りなさいと言われるわけです。あなたがたはアブラハムの子孫かもしれない、肉体においては、目に見える表面の部分はそうかもしれない。しかし、表面だけではない、心の奥底、具体的に言えば、あなたという全存在を作ったのは、アブラハムではなく、創り主である神様であるということ。だから、あなたの全存在に語りかけるのは、神様であり、救い主なのです。

 ヨハネの言葉は厳しいものです。罪を告白して、悔い改め、洗礼を受けることそのものが、神様の怒りを免れる保証にはないというからです。でもやはりそれは、自分たちはアブラハムの子孫であるが故に、救われるという自分の中に救いの確かさを覚えている人たちにヨハネはメッセージを言いたかったのでしょう。アブラハムではなく、あなたたちが真に悔い改めるのは神様の方であると。表面だけではなく、奥底に染み込んでいる神様のみ業をあなたがたは信じて受けとめているのかと。

 そこでヨハネは悔い改めにふさわしい実を結べと言います。悔い改めた結果、良い成果が出た証しとしての実ということではありません。また、悔い改めるだけでなく、その他に何か立派なことをして、成果を残せという意味ではありません。ヨハネが訴えているのは、悔い改める私たちの心構えです。

 来るべき救い主は、私たちの予想を遥かに超えて、大地の奥深くに水や養分が行き渡らないような荒野のような、人がさけて通りたいところに来られます。人間の業は表面上の、目に見えるところで留まってしまっても、主のみ業はそれを超えて、奥深くに行き渡るのです。ようするに、神様に来られないところはないということ。それこそ私たちの奥深くに、全存在の中に救い主は来てくださるのです。それは、私たちが罪を告白して悔い改めたからではないのです。主イエスの方から、それこそ荒野のような私たちの心の奥ふかくに染み渡るかのように、来てくださるのです。そこで気づきたいことは、悔い改めをするのは一人ではないということです。私たち人間がひとりで頑張って、なんとかして神様のもとにたち返っていくのではないのです。それはただの反省にすぎません。反省ではなく、悔い改めるということは、そのように招き、共にいてくださる主イエスとの出会いによって、悔い改めへと導かれるのです。奥深くまで染み込むかのように来て下さる主イエスとの出会いを通して、私たちの人生の歩く道が変えられていく、方向転換していくのです。だから、悔い改めとは、ひとりでできるものではないのです。主イエスの方から出会って下さる、その恵みに委ねて、悔い改めて生きていく。その姿に、悔い改めにふさわしい実である、あなたの姿がそこにあるのです。悔い改めにふさわしい実とは、出会ってくださる主イエスと共に新しい人生を歩んでいくあなたの存在そのものなのです。

 主イエスはこの世の、私たちの苦しみを知り尽くす主として来てくださいます。この主イエスが差し迫った神様の怒りを、十字架の死をもってして、代わりに受けられ、私たちは救われるのです。その主イエスが来てくださるクリスマス、クリスマスに至る道は、悔い改めにふさわしい実を結んで下る私たちの存在の中に確かにあるのです。だから、その喜びをもってして、救い主を待ち望みましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。