2016年12月11日 待降節第3主日「愛する人」

マタイによる福音書1章18~23節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 私はこの教会の牧師として、結婚式の司式をしています。結婚式の要は結婚するふたりが神様の前で愛を誓い合う誓約式です。その時司式者である私はふたりに、「あなたは、○○が病気の時にも、健康な時にも、他の者が見捨てるような時にも、夫、または妻として守りますか。」と質問し、ふたりから返事をいただきます。これはとても大切な誓いの言葉です。相手がどのような時にあっても、たとえ愛する家族から見捨てられても、私はあなたをパートナーとして守り、受け入れますと誓うのです。それは相手の人生、全存在を自分の人生、自分の存在として受け入れるということです。それが相手を愛するということでありますが、そのように相手を愛し、受け入れるということは相手を信じるということでもあります。それは全て相手の言いなりになることではなく、時には相手に注意をし、戒めることも大切ですが、根本的には相手を信じて受け入れ、見捨てることではないのです。愛を誓い合うということは、お互いが向かい合って、相手の良いところ、悪いところ、また信じられることと、そうでないところをいろいろと詮索することではなく、お互いがひとつの同じ方向を向いて横並びとなって、共に歩んでいくことなのです。そのように歩んでいくには、相手を信じなくてはなりませんし、信じるところから、ふたりは新しい一歩を踏み出していくことができるのです。

 今日の福音書に登場するヨセフとマリアも、そのようにお互いの愛を誓いあった人たちだったのでしょう。ふたりは婚約していましたが、まだ正式には同じ屋根の下で、夫婦として生活をしていた関係ではなかったそうです。でも、ユダヤの社会では、婚約をしたふたりは、もう夫婦同然と見なされていましたから、彼らふたりの周りの人たちも、彼らを夫婦として見ていたことでしょう。ヨセフとマリアはどこにでもいる普通の夫婦で、やがて一緒に暮らすことになっていた人たちです。そのことを何よりもふたりが待ち望んでいたことだと思います。ところがある日、マリアが聖霊によって身ごもったということが起こりました。ルカ福音書では、この出来事を受胎告知として、マリアが神様の使いである天使からそのことを聞かされ、彼女の視点から描かれていますが、(ルカ1:26~38)このマタイ福音書ではこの出来事をヨセフの視点で描いています。

 ヨセフはそのことをマリアから聞かされたのでしょうか、その詳細はわかりませんが、ふたりが大変驚いたことは明白です。さらに、このことが公になれば、もっと大変なことになります。もしマリアが有名人だったら、週刊誌のスクープとなり、「ヨセフと婚約していたマリアに姦淫の疑惑有り」、とかそんな見出しで世間の人に知られてしまいます。姦淫の罪を犯した者は、律法の掟によれば、石打の刑にあって殺されてしまうのです。(申命記22:22~27)

 この時のヨセフの驚きと苦悩は計り知ることができません。そのようにマリアが危険な目に合いそうになっているということに加えて、何よりマリア自身を信じることができるのかどうかということで、悩んでいたことでしょう。そこで彼は、マリアと密かに縁を切ることを選びます。マリアのことを表ざたにするのを望まず、というのは、自分が世間の人から恥を受けたくないからということではなくて、マリアの身を案じてのことでした。最初からこの婚約をなかったことにすれば、掟によって殺されてしまうことはないし、このまま自分と一緒にいても、周りからの視線やよからぬ噂で、傷つくだけだから、こうしたほうがいいと思ったのでしょう。ヨセフの正しい人という正しさはマリアに向けられた優しさと配慮に満ちたものですが、彼は大きな不安を抱いていたのでした。彼女のことを決して憎んではいないし、彼女の幸せを願っていましたが、もうマリアと一緒に歩んでいくことができない、マリアとの新しい一歩を踏み出していく未来が描けないことでした。だから、マリアとの歩みを心から信じることができなかったのでしょう。

 マリアのためを思って決心したヨセフの正しさには限界がありました。縁を切ることによって、なんとか事態を乗り切ることはできるかもしれないけれど、ヨセフもマリアも孤独でした。決して人には言えない秘密、打ち明けることができないものを心の中に抱いて歩んでいかなくてはならないからです。相手を心から信じることの困難さは今の私たちと変わることはないでしょう。

 しかし、ヨセフは、自分とマリアのことを見捨てない方と出会うのです。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)その方との出会いは、このように考えているところ、つまりヨセフの決断の限界と孤独の中においてです。信じることができない思いの中に、神様は御使いを通してヨセフに現れます。そして、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と告げられます。正しさ故に、彼女のためを思って、彼女と別れるヨセフの思いが本音ではなく、実はその根本にあるあなたの思いは恐れに満ちていると天使は言うのです。このヨセフの恐れこそが、マリアとの歩み、その歩みのビジョンを信じることができず、歩みだせずにいた。その心の思いを、天使はヨセフに告げるのです。

 天使はまさに彼の恐れの只中において、彼と出会いました。そして、真に彼らを結びつけ、彼らの歩みを導くのは、恐れるなという神様の声であり、その愛の御業なのです。恐れ、疑うのではなく、信じる者として歩みなさいと。マリアを愛する人として、他のものが彼女を見捨てても、あなたは彼女を信じて愛し、迎え入れなさいという声でした。

 その神様の約束は、聖霊によって身ごもっている主イエスによって、確かなものとなるのです。天使は言います。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(21~23節)神は我々と共におられるというのは、常に近くにいて、自分たちを助けてくれる便利な存在ということではなくて、神様の方から私たちと共にいてくださり、それは神様が私たちを愛し、信じていてくださるというメッセージです。我々が神と共にいるのではなくて、神が我々と共にいてくださる。だから、神様が私たちと出会ってくださるところは、まさに疑いや恐れの只中にあって、孤独の中にある私たちの只中においてです。たとえ、あなたたちが恐れ、不安の中にあろうとも、私はあなた方を見捨てはしない。私があなたたちを信じ、愛して迎えいれているから、あなたたちも信じるものとして歩みなさい。その歩みの中に私は共にいるからと約束してくださっているのです。

 ヨセフは主の言葉を信じて、マリアを迎え入れ、マリアと共に新しい歩みを踏み出しました。このふたりの歩みを通して、クリスマスの喜びが私たちに伝えられていきます。それは決して平坦な道ではありません。悲しみがあり、疑いがあり、不安があり、恐れがあります。でも、その道を共に歩んでくださるかたがおられます。恐れの中から、新しい一歩を共に踏み出してくださる方が、私たちの只中に宿ってくださいます。恐れの中に来てくださる、主イエスを信じて迎え入れましょう。クリスマスに向けて、私たちもこの片と共に一歩を踏み出していきましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。