2016年12月18日 待降節第4主日 「顧みる力」

ルカによる福音書1章46~55節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 アドベントクランツの4本目のロウソクに火が灯り、いよいよクリスマスが間近に迫ってまいりました。今日の福音書はマリアの賛歌と呼ばれる、マリアが神様を賛美している場面です。先週はマタイによる福音書から、夫のヨセフの視点から、御子イエスの誕生物語を読んでまいりました。ヨセフの視点、またそれはヨセフの苦悩そのものと言える物語です。彼は聖霊によって身ごもったマリアのことを知り、どうすればよいか苦悩します。苦悩の末、彼女とひそかに縁を切って、お互いが生きていくための道を、彼なりに模索するのですが、彼の夢の中で天使が「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(マタイ1:20)と彼に告げ、また、その生まれてくる子はインマヌエル、神は我々と共におられる方である」(マタイ1:23)と力強く告げて、彼を導くのです。その神様の御心を告げる天使の導きは、ヨセフにとって、決して平坦な道を歩むことができるという保証はしておりません。この後、ヨセフは身ごもっているマリアと共に、ベツレヘムまで旅をしなくてはならないからです。さらには、権力者から追われる身となるのです。

 およそ、私たち人間から見れば、それは面倒な道、苦難の道に見えます。リスクを避けたいものです。しかし、神様の導きは、時にその真逆をゆくわけです。その根拠は、神は我々と共におられる、つまり神様はヨセフとマリアと共にいて、彼らを見捨てることはないということで、常に彼らのことを顧みて、彼らの人生の旅路を導かれるところにあります。ただ、「神が共におられる」、それを私たちはよく人生が軌道に載っている時などに、思うことかもしれません。また、病気にかからず、健康でいられるのは、神様が共にいて守ってくださっているからと思い、逆に病気にかかった時、神様なぜこんな病気にかからせるのですか、私のことを見捨ててしまったのですかと、嘆くものです。うまくいっているから共にいてくださる、うまく行かないから共にいてくれないというのは、自分中心の思いです。神様が共にいるから、平安で、大丈夫だということではなくて、神様はまさにこの今の私、私の全存在と共にあるということを信じるところに、共におられるという神様の導きが見えてくるのです。ですから、それは私の人生の主が私ではなくて、神様あなたです、あなたこそが私の人生の主、私の全存在を肯定し、共にいて導いてくださる方であるとそのように言えます。私の状況によって、私がどう思うかということを超えて、神は我々と共におられる、すなわち神様の方から私たちのところに来てくださって、あなたと共にいる、いやあなたと共にいたいという愛を、私たちに向けてくださっているのです。今日のマリアの賛歌の中でも、マリアが告白している中心点はそういうことです。

 マリアがこの歌を歌ったのは、彼女もまたヨセフと同じ経験をしたからです。少し前の箇所に遡りますが、天使がマリアの前に現れて、主イエスを身ごもったということを彼女に告げます。いわゆる受胎告知と言われる場面(ルカ1:26~38)ですが、マリアもまたこの天使から、主があなたと共におられると告げられたのです。でも、当然彼女はその言葉に戸惑い、不安を覚えます。まだ自分は男の人を知らない、すなわちヨセフと一緒に暮らしていないのに、なぜそんなことが起こるのか。そして自分はこの先どうなってしまうのかと。そんな思いにある彼女に天使は親類のエリサベトの妊娠を彼女に告げ、神にできないことは何一つないと告げます。そしてマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って、天使の言葉を受け入れ、急いでエリサベトのもとに行き、自分たちに起こった出来事を分かち合います。そこでエリサベトはマリアに「「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と喜び、(ルカ1:39~45)マリアはその喜びを歌にして今日のマリアの賛歌として表すのです。

 このようにマリアはヨセフと同じ体験をするのですが、ヨセフとは違う点がいくつもあります。エリサベトの存在もそうですが、彼女はただ主の言葉を受け入れて、信じたということではなくて、自分は主のはしためであると告白していることです。先ほどの受胎告知の場面と、そして今日の賛歌の中でもそのことを言っています(48節)。はしためというのは、奴隷という意味です。この言葉は口語訳聖書では卑しい女と訳されています。卑しいというと、身分が低く、心が卑しい、卑しく、ずる賢い考えがあるという具合に、あまり良い印象をもつ言葉ではありません。卑しい女、自分を卑下しているように聞こえます。またルターはこの言葉を「無に等しいもの」と訳しました。取るに足らない者であるということです。それで、マリアが私は主のはしためです、または身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです、という時、彼女は自分や周りに起こっていることに対して、どうこう思いめぐらし、それを神様に聞いたり訴えたりするのではなく、自分と向き合い、自分のことを知るわけです。

 もちろん、マリアもヨセフと同じで、最初は天使の言葉を疑い、不安を覚えました。そして、そのことを受け入れても、彼女を取り巻く状況は変わらないわけです。それはヨセフも同じ体験をしているのですが、彼女の思いの中では到底納得のできないことだったでしょう。周りからの視線は厳しく、ヨセフからはどう思われているか、この先の結婚生活はどうなってしまうのか、不安だらけです。それを決めるのは夫であるヨセフなのですが(律法に従って)、それでもマリアは自分を真に導く方が共におられることを信じるのです。そこで自分は主のはしためであると告白します。自分は卑しく、身分の低い小さいもので、無に等しい存在であると。この彼女の告白は、もはや自分に起こっている状況を自分なりに納得して、受け入れていこうとする姿勢ではないということです。自分を中心に考えた末に出した決断ではなくて、主のはしためとして、主のご意思に従うという姿勢に思いを向けているのです。

 ですから、ただ自分のことをはしためと言って、自分はだめだ、どうしようもない人間だと、自分で自分のことを評価したり、決めつけたりしているわけではありません。今自分に起こっている出来事、それはもう自分自身では手に負えないこと、到底自分だけでは受け入れられない状況なのです。だから、これはマリアが自分のことを謙遜している言葉でもなく、マリアの謙遜の態度に、神様が喜んで、彼女を導いているわけでもないのです。彼女は自分の力や知恵、この世の概念に従って、自分のことを受け止めようとするのではなく、今この状況にある自分とは何者なのか、何を示されているのかということに目を向けます。そこで私は主のはしため、この私の存在、私の人生を決定づけるのはこの私ではなく、主であると。主が私の存在の主であると。だから、私が存在しているのは、主なる方が共にいるからであって、自分で自分の存在を肯定しているからではないのです。この私の存在を肯定し、私を決して見捨てない方が共におられる。だから、この私がどんな者であろうと、私を導き、助けてくださるのだと、マリアは喜んで歌っているのです。

 私たちはこの歌の中にマリアの力強い信仰を見出し、自分はマリアと違って、こんな立派な信仰は持てない、こんな歌は歌えないと思っているところがあるかもしれません。確かにマリアに起こった状況は、私たちの体験ではありません。彼女自身の体験です。しかし、マリアの姿は私たちと変わりません。彼女は自分の正しさや利口さで、主の言葉を受けいれて、自分の状況を受け止めようとしたのではないのです。彼女自身の中には、不安や戸惑い、疑いがあったのです。それは先に言いましたけれど、病気をして、なぜ自分がこんな目に合わないといけないのか、神様は共にいてくださらないのかと嘆くのと同じです。どんな慰めの言葉も聞けない時があるでしょう。

 でも、神様が共にいてくださるのは、まさにその今の自分自身においてなのです。ひとりで考え、ひとりで背負っていけというのではないのです。あなたの今の人生、存在はちゃんと神である私の中にある。神様のご計画と愛の中にある。だから、私は、私なりに難しく考えて、納得しようとして、今の状況を受け止めようとしなくていい。というか、できないでしょう。この私、私は神であるあなたのはしため、だから、あなたに委ねて、私は私らしく、今の私を生きていくことができる。神様と共に生きていくのです。

 アメリカのポップシンガーであるレディーガガさんの歌に次のような歌詞があります。『ボーン・ディス・ウエイ』という曲の歌詞です。「あたしが若い頃、ママが言ってた。みんな生まれたときからスーパースターよ。髪をまくりあげて、口紅を塗ってくれた。ガラス張りのブードワで、ありのままの自分を愛せばいい。ママが言ったわ。そのままで完璧なあなたを神は創ったの。だから顔を上げていれば遠くまで行けるわ。これから言うことをよく聞いて。自分らしいままで美しい。だって神には一寸のブレもない。このまま進めばいいのよ。・・・人生で障害を負って、仲間外れにされて、いじめられて、からかわれても、今日いる自分を愛して、そしてお祝いして。
こういう歌です。神には一寸のブレもない。そう、自分や周りはブレだらけであっても、神様はブレない。あなたと共にいて、あなたを愛し、あなたを絶対に見捨てない、その正確さ。そして、神様は完璧な私を作ってくれたのだという真実。完璧な私として作ってくださった神様の愛を感じます。完璧というのは、私に対する完璧さ、ようするに、丹念に愛をこめて作られて、生きているのが私だということでしょう。神にできないことは何一つない、(ルカ1:37)そして神様が私に偉大なことをなさってくださった(49節)というのは、こういうことではないでしょうか。

 私は主のはしためです。この私を完璧に、愛をこめて作ってくださったあなたが私の主であり、私と共にいてくださる方です。悲しい時もあり、苦しい時もある。でもそれは主が私たちを見捨てたわけではないのです。その只中で、神様が私たちの人生の主として、私たちを生かし、導いていかれるのです。このマリアの賛歌は、また私たちがこの主の恵みと愛を忘れないようにというメッセージを私たちに伝えているものではないでしょうか。この恵みは私だけのものではない、全ての人のため、ひとりひとり、神様によって作られた人のためにある恵みです。だから、私たちも歌えるのです。私たちも主の偉大な恵みのみ業の中にあるのです。その喜びを歌ってまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。