2017年1月1日 降誕後主日「悲しみを担って」

マタイによる福音書2章13~23節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 新年を皆様とこうして迎えることができ感謝いたします。新しい年を迎えるということは、心を入れ替えるきっかけとなると言いましょうか、何か新しい目標を立てて、新しいことをする、新しい生き方をしていこうと決心する、そのように思うときではないかと思います。

 世間ではお正月を迎え、今年の目標を語る人々がいますが、教会暦は降誕節であり、クリスマスの只中にあります。1月6日の顕現日までがクリスマスなので、クリスマスの飾りはまだ飾っているわけです。それで、私たちはクリスマスの中で新年を迎えるわけですが、それはクリスマス、いわばイエスキリストの降誕日こそが新年の始まりであり、主イエスから新年を歩みだしていくのです。主イエスから新年を歩みだしていくということは、私たちが主イエスのもとに立ち返り、主イエスを自分の中に迎え入れることです。

 今年は宗教改革500周年の年でありまして、この一年間の教会活動は、このテーマを軸にして進められていくことかと思いますが、私たちは宗教改革、ルターの言葉を通して、キリスト者は常に(生涯は)イエスキリストに立ち返るということを教えられています。それは自分を軸にする生き方から、主イエスを軸にする生き方へと変えられていく新しい生き方です。新年を迎えるということの大きなきっかけはこのことにあるのではないかと思います。

 それで主イエスに立ち返る、主イエスの元から歩みだしていくということは具体的にどういうことでしょうか。キリスト教の歴史や教理をしっかりと学び直して、教会の伝統に立ち、教会のルールをしっかり守っていこうとすることでしょうか。その上で教会とは何かということを問い続けることは大切ですが、それは伝統を守ることではありません。私たちが主イエスの元から歩み始めるとき、それは主イエスの愛に生きていくということではないでしょうか。主イエスの愛に生き、主イエスがこの私を愛してくれたように、この私もまた主の愛を隣人に伝え、愛によって隣人に仕えていくことであると言えます。だから、何か教会が真新しいことをしようとしたり、伝統に立ち続けようとしたりすることでもないのです。世の隣人を覚え、隣人のために祈り、隣人が必要としていることを支援していくというところに活動し、生きていくのではないかと思います。

 クリスマスにおいて、主イエスが私たちに与えられ、その救い主はインマヌエル、神は我々と共におられるという意味であるということを、マタイの福音書から聞いてまいりました。このインマヌエルというのは、4つの福音書の中ではマタイの福音書にだけ出てきます。そしてマタイ福音書の終わり(28章)でも、インマヌエルとは直接記されていませんが、世の終わりまで、私はあなたがと共にいると主イエスは言われました。ですから、マタイ福音書全体の大きなテーマはこのインマヌエルという言葉にあります。このことを念頭に、これからの一年、マタイの福音書から御言葉を聞き、主イエスの下から、主イエスと共に歩んでまいりたいと思います。

 それで、今日の福音書もクリスマス物語と言える場面でありますが、それはクリスマスの喜びや嬉しさとは真逆の、ヘロデ大王による幼児虐殺という悲しみや苦しみ、嘆きといった暗さが目立つ物語という印象を誰しも持たれたかと思います。ヨセフとマリアは天使のお告げによって、その難を逃れ、主イエスは逃亡先のエジプトで幼年時代を過ごします。幼い子供を背負っての命懸けの逃亡でした。おそらく夜飛び起きて、何の準備もできないままに、とにかく家族を連れてエジプトに逃れていったのでしょう。財産もほとんどなかったでしょうし、エジプトという外国の見知らぬ土地での生活は本当に大変だったと思います。そのように生まれながらにして、主イエスの歩みは困難の中に入っていくものであり、それは十字架への道と突き進んでいくものでした。およそ、人が歩みたくない道を主イエスは歩まれ、人がしたくない、嫌なことを引き受けた出来事があの十字架の出来事なのです。そこに主イエスの愛、神の愛の原点があるわけです。人々が描くダビデの血を引くユダヤの王としての姿は微塵も見られないのです。

 主イエスが生まれた時の、ユダヤの王様がこのヘロデでした。幼児虐殺事件を犯した人物として、残酷なイメージしか持たないかもしれませんが、この王様は非常に賢い王様でもありました。ローマ帝国の支配下にあって、彼はローマ皇帝の庇護のもと、勢力を拡大し、ついにはローマ皇帝によってユダヤの王に任命され、ユダヤ全土を治める程の力と権力をもちました。さらに、外交を駆使して、ローマ皇帝と親密になり、ローマ帝国を後ろ盾にして、ユダヤの地で多くの公共事業に取り組み、その支配を磐石なものにしていきました。そして彼は、あのソロモン王以来の、誰でも成し遂げることができなかったエルサレム神殿を再建しました。一方で、自分に歯向かう者は身内、家族であろうと容赦なく粛清していきました。邪魔者は容赦なく消していくという王様の姿です。幼児虐殺の出来事は、主イエスという新たな王の誕生を恐れ、邪魔な存在なので、消そうとした。それが原因で起きた悲劇です。

 邪魔者は消していく、それは嫌なことを避け、関わりを持とうすることではないということでしょう。都合の悪いものを排除し、自分に害が及ぶものに蓋をしめようとすることです。自分もどこかにそんな思いがあります。面倒は引き受けたくないと思いますし、自分の身を心配したりします。ヘロデはただ残酷な人間というだけでなく、内心は自分の身を守るにはどうすればよいか、不安に不安を重ねた生き方をしていたのではないでしょうか。それで王としての自分をどう保つのか、どこに価値を見出すのか、という恐れが彼を覆っていたのかもしれません。しかし、不安と恐れからは愛は生れず、悲しみや苦しみ、憎しみだけが生まれました。

 主イエスはこの悲劇の只中に誕生しました。この悲劇の現実があるこの世で主イエスは歩まれていくのです。そして主イエスの十字架への歩みもまた、この悲劇の只中に入っていくものです。しかし、その中で主イエスの歩みは面倒を引き受けつつ、嫌なことを引き受けつつ、人々を立ち起こす神の言葉を伝え、愛に生きていかれるのです。私たちが主イエスのもとから歩み始め、愛に生きるとき、それは時に面倒を引き受け、嫌なことを担うこともあるでしょう。しかし、そこで生まれるものは、絶望ではなく、希望であり、愛なのです。その新しい生き方へと私たちは招かれています。主イエスの愛の御言葉にあって、自分を保ち、この一年、互いに愛し合い、共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。