2017年1月15日 主の洗礼日 「なすべきこと」

マタイによる福音書3章13~17節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日は主の洗礼日として、礼拝を守っています。洗礼は聖餐式と共に、神様の目に見える恵みの御業として、キリスト教会では特に大切にされています。洗礼という言葉は他の宗教などでも多く使われていますが、元のギリシャ語では「バプティスマ」で、意味は「水に沈めること、浸すこと」です。このことから、初代キリスト教会では、洗礼式においては、人の全身を沈めて行っていました。それはいったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い(罪の)自分に死んで、新しい(神の)いのちに生きることを意味しています。またパウロはローマの信徒への手紙6章でこう言います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(6:4)このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(6:11)洗礼によって与えられる新しい命は神に対して生きていく命です。それは私あってキリストがいるということから、キリストがあって、私の存在があるという生き方に変えられることです。キリストの内に私の人生があり、キリストと共に生きていくことなのです。

 さて、この洗礼は、主イエスの前に現れた洗礼者ヨハネによれば、悔い改めの洗礼であり、差し迫っている神様の裁きに対して、罪を告白することに重点が置かれていました。それは、自分は神様から救われていると思っていたユダヤ人たちに特に向けられたものでした。ヨハネの言葉は厳しいものでしたが、その言葉には力があり、人々の心を動かしたのでしょう。ヨハネのもとには多くの人々が集まり、人々は彼から洗礼を受けていきました。そして、人々の中にはこのヨハネこそが自分たちが待ち望んでいる救い主、メシアではないかという期待を寄せていた人も多くいたようです。しかし、ヨハネはその人々の思いを拒絶します。自分はメシアではない。自分より後から来る方がメシアであると。自分は悔い改めに導く洗礼を授けるのみで、自分自身が神様の救いを授けるものではない。罪人が神様から裁かれてしまうから、罪を告白し、神様のもとに立ち返って、悔い改めなくてはいけないという使命をもって、活動していました。そしてヨハネは後から来られる主イエスに、全てを委ねて、身を引いていくのです。真打が登場し、自分の出番はそこで終わるということでしょう。最後は自分自身が主イエスの前で罪を告白し、主イエスから洗礼を授けてもらうつもりでした。しかし、ヨハネの役割はそこで終わりませんでした。あろうことか、主イエスは他の人々と同じように、ヨハネから洗礼を受けるために、ヨハネのもとにきたのです。

 彼は大変驚いたことでしょう。「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(14節)と言っているように、なぜ罪もない方が、罪のある自分から洗礼を受けようとするのか。それに何の意味があるのかと。「思いとどまらせる」というのは強い言葉です。この言葉が否定形で、主イエスの言葉にあります。主イエスから祝福を受けようと、主イエスのもとに行こうとした子供たちを弟子たちが制止しようとする箇所(マルコ10:13~16節)で、主イエスが弟子たちに「妨げてはならない」と言い、この妨げると同じ言葉です。主イエスに自分が洗礼を授けることは、遠慮するとか、躊躇するという弱い思いではなく、とにかくそれは妨げなくてはならず、ありえないということであるとヨハネは強く思ったわけです。特にマタイ福音書にはこのヨハネの驚きとも恐れとも取れる思いが描かれています。

 それで主イエスはこう答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」主イエスのこの言葉を聞いてヨハネは洗礼を授けました。ヨハネが納得し、理解したのかどうかはわかりませんが、洗礼を受けるきっかけとなった言葉でした。妨げられなくてはならないというヨハネの制止を主イエスは振り切ります。そして、洗礼を受けることは正しいことであると言われました。この言葉はなすべきこととも訳され、主の御心をあらわしていると言えますが、この言葉はもとは「義」という意味の言葉です。義人の義で、正しいということです。新約聖書ではこのマタイ福音書にたくさん出てくる重要な言葉ですが、旧約聖書にもたくさん出てきます。旧約ではツェダカーと言いますが、救い、赦し、勝利、恵みという意味に訳され、神の義、神様の属性を表す言葉と言ってもいいかもしれません。その神の義が、主イエスの洗礼ということにまず表されるのです。ヨハネにとってそのことは、主イエスが罪の世界に来られたこと、罪人たちと同じ立場の中に身を置いたことを意味することでしょう。そして、救い、赦しである正しいこと、神の義を成し遂げるということをご自身の受洗において表すことは、罪人が裁かれるという価値観をひっくり返す出来事でした。裁かれないように、神様のもとに立ち返り、神様の方に自分から近づいていきなさいということではなく、罪人をこそ愛し、神様の方から罪人に近づいていったことでした。

 主イエスは後にこう言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)罪人を招くためだ。それは罪をうやむやにすることでも、愛することでもなく、罪に苦しむ罪人を愛するということです。罪を告白し、悔い改めて神様のもとに立ち返る前に、既に先行する神様の愛があり、この愛によって罪人、全ての人が、罪の赦しへと招かれているのです。

 私たちが立ち返って行く前に、神様の愛の招きがあるのです。それは100匹いる中で見失った1匹の羊のたとえ話(ルカ15:1~7節)においてもよく表されています。羊飼いははぐれた1匹を、自分の手元にいる99匹と価値を比べようとする見方はしませんでした。たかが一匹いなくなっただけではないかとは思わず、またその一匹に何か特別で希少価値があるかないかという見方もしませんでした。また、99匹を安全なところに置いた上で、1匹を探すということもしませんでした。羊飼いにとって重要なことはそういうことではなく、その1匹がはぐれてしまった事実そのものでした。そこに条件や価値観はありません。1匹がいなくなった、だから探さなくてはならない。その1匹が大切だから。必死で探し、おそらく傷だらけになったでしょう。羊飼いの方から探しにいくわけです。方っておいたら、野獣に食べられ、死んでしまう。そうならないようにひたすら探すのです。羊飼いもその危険な状況の中に身を置くのです。そしてはぐれた1匹を見つけ出し、喜んでくださる。また羊飼いだけでなく、天においても喜びの歓声が上がるのです。

 この1匹がどうしてはぐれたのかはわかりません。でも、100匹の羊がいる世界は、私たちの現実の世界を顕しているようにも思えます。いろんな人がいて、国があり、文化があり、価値観があります。1人ひとりがその中で生き、様々な悩みや困難を抱えて生きています。それ故に、様々なことがあって、誰しもがその群れからはぐれてしまうことがある1匹の羊であり、1人の罪人ではないでしょうか。主イエスがなさる正しいこと、神の義は、その1人ひとりのためにあるのです。1人ひとりを愛し、探し出し、命を与え、導いて行かれるのです。それを成し遂げるために、主イエスは洗礼を受けられ、私たちの世界に身を置かれて、その公の生涯をこの洗礼の出来事において始められたのです。

 迷いがあり、困難があり、試練があるかもしれません。先の見通せない世の流れがあります。どこに向かって歩んでいけば良いのか、目に見える希望というものがなかなか見いだせない世の中です。だから待ち受けるのは紆余曲折の人生の旅路かもしれませんが、そんな迷いを抱えつつある私たちを主は必ず探しだして共に身を置いてくださり、必ず1人ひとりが行くべき目的地へと導いてくださいます。それが主のなさる正しいこと、私たちを愛するための神の義なのです。この神の義は、主イエスの姿によって顕になったのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。