2017年1月29日 顕現節第4主日「神が見ているもの」

マタイによる福音書4章18~25節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 主イエスの宣教はガリラヤという場所から始まり、そこは異邦人のガリラヤと呼ばれ、神様の救いから最も遠いとされていた場所でした。そこにキリストという救い主がやってきたことを聖書は、「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」と記し、暗闇の中にキリストという光が差し込んだ、光の方から暗闇の只中にやってきたということを証してしているのです。つまり、こちらからではなく、あちらから、神様の側からのアプローチがあったわけです。その神様のみ心がキリストという光となって私たちの只中に来られ、光が暗闇の中で輝くように、ここから宣教を開始されたのです。(マタイ4:12~17)

 主イエスはその宣教の始まりに当たって、まず何をされたかと言いますと、弟子たちを必要とされたということです。この弟子たちの姿を今日の教会に重ねることができるかと思います。それは、宣教を効率よく、有利に進めていきたいからではなく、主イエスの宣教の御業に、弟子たちを呼びかけ、弟子たちが従っていったのは、宣教の基が主イエスに従って生きていくことであるということを端的に伝えているからではないでしょうか。宣教とは単なるキリスト教や教会のPR活動ではなく、キリストに従う者たちの姿がそこに示され、ひとりひとりがまた小さなキリストとなって、自分に与えられた賜物を用いて、キリストに従ってこの世を生きていくということが軸になるのです。

 それで、その主イエスの最初の弟子となったのは、このガリラヤ地域にあるガリラヤ湖という湖で、漁師をしていたペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネでした。主イエスは彼らのもとを訪ねていきなり声をかけたのではなく、彼らをご覧になっていました。そして、ペトロとアンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、彼ら二人は 「すぐに網を捨てて」主イエスに従いました。ヤコブ、ヨハネも呼ばれ、漁師の仕事道具である船と家族の父親を残して従っていきました。マタイ福音書ではこの時の彼らの状況が詳しく記されていないので、彼らがなぜすぐに主イエスに従っていったのか、しかも仕事を捨て、家族を残してまで従っていったのかということはわかりません。ルカ福音書では、(5:1~11)ペトロが夜通し、漁をしても魚が取れない日もあったということが記されているので、生活は決して楽なものではなかったのかもしれません。ただ、このマタイ福音書では、彼らの状況を彼らの視点からではなく、主イエスの視点から捉えていることに特に強調点が置かれているように思えます。主イエスは彼らをご覧になっていた、つまり彼らの日常を見ていました。彼らの日常の姿、ありのままの彼らの姿を見ていました。聖書を読んだり、賛美歌を歌ったり、お祈りをしている時でもなく、しかも場所は彼らの仕事場です。その時何をしているか、どこにいるかということを注視していたのではなく、彼らの普段の姿、人生そのものを見つめていたわけです。そして、ご覧になるというのは、理解する、知る、という意味も含まれている言葉です。主イエスは彼らをご覧になり、彼らという存在そのものを知り受け止めていたわけです。そこで彼らに私に従いなさいと言って声をかけ、彼らは従って行ったのです。

 彼らにいったい何が起こったのか。なぜすぐに仕事を捨てて、家族を残し、主イエスに従っていったのか。その疑問の答えは直接彼らに聞くしかないかもしれませんし、彼ら自身も明確な理由を答えることができたかどうかはわかりません。そして、なぜ主イエスは彼らを自分の弟子として選ばれたのでしょうか。ご覧になって、弟子としての素質に気づかされたからでしょうか。しかし、福音書を読んでいきますと、弟子としての彼らは主イエスに叱られてばかりで、時には神様の祝福を受けようとする幼子を拒み、また時には弟子の中で誰が一番偉いかという主導権争いまでする始末です。それでもとにかく主イエスに導いていかれる姿ばかりが描かれています。だから、特別彼らに素質があったからということではないでしょう。

 かつてイスラエルも、神様によって選ばれ、神の民とされました。その理由を申命記の7章6~8節でこう記します。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」強く、大きく、魅力的だから、選ばれたのではなく、誰よりも貧弱だったから。小さく、弱く、魅力的でないあなたが選ばれたのだと言うのです。そして、次にあなたに対する主の愛のゆえにと続くのです。貧弱になることが選ばれる条件となるということではないでしょう。選ばれたあなたは貧弱だ。小さくて弱いのだということ。選ばれるためにそうなったのではなく、そうであるという自分に気づかされるのです。誰かと比べて強いか弱いかという自分の視点ではなく、神様から見たイスラエルの、人間の小ささ、弱さです。イスラエルはそのようして選ばれ、神の民とされました。しかし、選ばれたから、彼らが大きくなり、強くなるという約束をされたわけではありません。主に愛され、救われるためだからと言うのです。選ばれることによって、自分の弱さ、小ささに気づかされ、そのものを受け止めてくれる主の愛がある。その主の愛によって生きていく、いや生かされている自分の姿に気づかされるのです。しかし、イスラエルは、その自分が選ばれたということに慢心し、他の部族、異邦人を見下し、挙句には罪人だと見なしてしまいます。いつしか自分たちが大きく、強いものであると錯覚するようになります。そうすると、他者を裁くようになり、それが返って、自分たちの身を危うくしていくわけです。

 主が選ばれるということに、私たちの価値観は当てはまりません。小ささ、弱さそのものが条件ではなく、そういう自分であるということ、そういう自分そのものが主によって愛されているということを受けとめることなのです。では、なぜ自分が小さく、弱いのか、そしてなぜそのままに主に従うことができるのか。それは何よりも主ご自身が小さく、弱いものになってくださったからです。小さく、弱いものになったことで、神様に委ね、人に仕える方となってくださったからです。それが主の宣教される姿です。大きくて強いから、その力をもってして、人々を説得することができたのではなく、人々と同じところに立たれ、さらにご自身は人に仕えるものとして、小さく、弱くなってくださったのです。そして、大きく、強くしてくださり、もう小ささ、弱さという惨めな自分なんかとは決別できますと私たちを選んで導いているのではなく、小さく、弱くてもあなたが、あなたであり、あなたのその存在そのものを主は選ばれて、愛されているということを私たちに伝えているのです。

 4人の漁師は特別な才能を見出されて、選ばれたのではないのです。主イエスは4人の日常、彼らの存在そのものを受け入れ、彼らを弟子として召しだし、導いて行かれるのです。主の招き、呼びかけは私たちの日常の中にあるのです。それは主が私たちのことをご覧になっているからです。ご覧になっているかたの方からの働きかけがあるからです。だから、私たちが主の招き、呼びかけ応えて主に従うということは、日曜日に礼拝に来て活動することだけではなく、私たちの日常生活そのものの中で、既に起こっていることなのです。ありのままの日常の中で、ありのままの姿で、私たちは主に従っていくのです。その日常生活そのものもまた、主によって遣われている自分の姿があるからです。

 また、このご覧になる主の眼差し、私たち一人一人について、9章の36節ではこのようなことが言われています。主イエスの教えを聞くために集まった一人一人について、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と言います。この見ている方は主イエスです。この見るという言葉は、ペトロたちをご覧になっていたという言葉と同じです。飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿があります。飼い主のいない羊、つまり迷っているということ、それもただ何を食べようか、何を着ようかという選択の余地がある迷いではありません。その迷い故に、弱り果て、打ちひしがれているという危機的な状況にある迷いです。主イエスはこの姿を見ているのです。見てくださっているのです。迷いがない人生ってあるでしょうか。迷いなくうまく行っていれば、順風満帆な人生です。でも、常にそういう歩みができるということは誰しもないのではないでしょうか。挫折し、苦しみ、出口の見えない中をさ迷い、もがきくるしんでいる自分の姿がある。そんな自分に気づいてほしいけれど、それはなかなか気づいてもらえません。でも、その自分に気づき、自分のことを見ていてくださり、ほっとけない方がいます。その方が呼びかけてくださり、出口へと導いてくださる。出口にたどり着くために、こんな小さくて弱い自分はだめだと思っているかもしれない。でも、実はその出口は小さく、小さいから抜け出ることができるということだってあります。その小ささ、弱さに気づかれ、それ故に出口が見出される、その出口へと導いてくださるかたが共にいてくださるのです。そのような羊飼いとして、迷いの内にある羊としての私たちを呼ばれ、導き、私たちの歩みを主ご自身が担って下さるのです。

 今日歌いました教会賛美歌328番の3番の歌詞に、「まきばの羊、みうでに抱かれ」とあります。私たちが頑張って、必死になって主に従い、ついて行かなくてはいけないということではありません。ペトロたちと同じように、私たちもどこかでつまずいてしまうのです。そのように迷ってしまう羊である私たちを主はみ腕に抱いていてくださり、決して見捨てられる方ではないのです。私たちの迷いや愚かさ、小ささ、弱さをもこの方が全て担ってくださるからです。だから、迷っていても、愚かでもいい。無理に自分を背伸びさせ、大きく見せようとする必要はないのです。迷っていても、必ず出口へと辿りつかせてくださり、愚かでも、必要な知恵を与えてくださる方が共にいてくださるからです。その神様からの呼びかけを、聖書を通して聞き、それに応え、主に委ねて、自分のままに安心して主に従って生きてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。