2017年2月5日 顕現節第5主日 「天の父をあがめる」

マタイによる福音書5章13~16節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音は、有名な地の塩、世の光のたとえ物語です。主イエスは「あなたがたは地の塩である」または、「あなたがたは世の光である」と言われます。注目するところは、私はと言っているのではなく。あなたがたはと言っていることでしょう。あなたがた、この場面においては、直接的にはペトロやヨハネなどの弟子たちを指しますが、ここには弟子たちだけでなく、主イエスの説教を聞きに多くの群衆が集まっています。(マタイ5~7章)だから、あなたがたというのは、弟子たちだけに限定されているのではなく、今この主イエスの言葉を、聖書を通して聞いている私たち一人一人であると言うことができます。

 「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。特定の誰かではない、主イエスの言葉を聞いている一人一人がそうであると言われます。でも、地の塩、世の光、そのように言われて、戸惑う人も多くいるかと思います。自分のどこに塩としての魅力的な味があるのか、光として何か輝く才能があるのだろうかと。こうなりたい、ああなりたいという理想はあるかもしれませんが、今の自分自身に何か魅力的な要素、姿があるだろうかと思うかもしれません。ただ最後の16節で、主イエスは「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と言われ、地の塩、世の光としての行いが、自分の賞賛のためにではなく、世の人々が天の父をあがめるようになるためであると、その大いなる目的を告げるのです。あがめるというのは、賛美するという意味です。賛美歌を歌うのは、神様を賛美するためです。また、賛美するのは感謝することでもあります。その場合、神様が自分に何かをしてくださったから、恵みを施してくださったから感謝する、その神様の恵みに対する応答とも言えるでしょう。地の塩、世の光として生きていくことは、天の父があがめられるためだということです。

それで、地の塩、世の光であるということが、自分が賞賛されるためにではなく、天の父をあがめるためであるということは、自分の自己主張や自己実現のための地の塩、世の光としての自分の姿ではないということがわかります。私たちが地の塩、世の光として、神様から賜物を与えられ、その賜物をどのように発揮して使っていくのかというところに、神様の栄光が示されてくるのです。

 塩は必需品です。料理には欠かせません。塩を加えるだけで、その料理の味が大きく変化します。しかし、塩を大量に入れると、しょっぱすぎて、とても食べられたものではありません。むしろ体に毒です。適量で良いのに、塩味を強調して大量に入れてしまうと、逆にその料理をだめにしてしまうのです。適量をその料理に入れて、料理に溶け込むようにして、おいしいものができあがります。私たちはそのような塩であると言われます。塩である自分が、塩という自分の持ち味をただ強調したり、自己主張したりするのでは、地そのものをだめにしてしまうわけです。主イエスは、あなたがたは「塩」だと言われたのではなく、地の塩だと言われたのです。地という私たちの住む世界の塩です。だから、地に溶け込む塩としての私たちの姿があるのです。そこで塩味がなくなるわけでもないのです。

 しかし、主イエスは続けてこうも言われました。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(14節)塩に塩気がなくなれば、もはや塩としての役割を果たさない。必要性がなくなるのです。塩に塩気がなくなるなんてことは考えられないのですが、地の塩と言われた自分の中に、塩気がなくなるというのは、塩としての自分の存在がもはやそこにはないということです。

 光についてはこう言われます。「山の上にある町は、隠れることができない。」(15節)なぜか、山の上からではよく光が輝くからです。続けて、また、「もし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。と言われます。(15節)ここでは光をともし火として、それを升の下という狭いところではなく、燭台の上に置いて、部屋全体を明るくするのだと。それで世の光としての私たちの役割があるのだということです。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。(16節)いうのは、人々が注目するところです。人々の後ろや離れたところではないのです。それでは光としての役割を果たさないのです。そして光も同じように、闇を照らしてほどよい暖かい光となるのですが、この光が強すぎると眩しく、それを直視したら失明してしまいます。味を引き立たせる塩、暗闇を照らす光としての地の塩、世の光であると言うのです。

 それで、塩は塩気を発揮して溶け込み、塩味を出すのであって、塩味一色にするための塩ではなく、また光は世の闇を照らす光として輝くのであって、闇を倒すための光ではないということです。相手を打ちまかしたり、相手の言いなりになるということではなく、その相手と共に生きていくということと言えますが、それが地の塩、世の光として歩むということは、塩として地上に身を置き、光として世に身を置くということです。地や世という天の世界には属さないところで、塩や光に顕される天のみ心、すなわち御言葉に聞き従って生きていくと言えます。その生き方は升の下という、閉鎖的なところ、安全なところではないということです。地や世と言った私たちの現実世界、困難や苦難の伴う大海原なのです。そこに塩や光という神様のみ心を携えて、その大海原に遣われていく私たちの姿があります。

 それで、主イエスは「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と言われるのですが、あなたがたの立派な行いという言葉に、私たちはたじろぐかもしれません。その立派な行いというのは、ここでいう地の塩、世の光としての行いの中に顕れることですが、自分にはそんな立派なことなんてできない、むしろ自分のみっともない姿を世の人々にさらけ出してしまって、返って、神様のお名前を汚してしまったら、どうしようと思い悩むかもしれません。この立派なという言葉は、口語訳聖書では良いと訳されています。元の言葉は「美しい」という意味です。良い行い、美しい行い、その意味合いを兼ねて、立派な行いと新共同訳聖書は訳しているのでしょう。

 ただ、この行いというのは、自分の功績にかかる立派さ、良さ、美しさではないということです。地に溶け込む塩、闇を照らす光としての行いであり、自己実現のための行いではありません。何より、あなたがたはと言われる主イエスからいただく、主イエスによって成される地の塩、世の光としての私たちなのです。だから、主イエスの名による行いです。主イエスの名によって祈ることから初めて、地の塩、世の光としての私たちの姿が明かされていくのです。

 昨年の12月30日にノートルダム聖心女学院の理事長である渡辺和子さんが亡くなられましたが、その渡辺さんが、ご自身が修道院にいた時のあるエピソードを語っておられます。渡辺和子さんが修道院にいたときのことです。

 食事の準備で食卓にお皿を配っていると、あるシスターが寄ってきて、
「渡辺さん、あなたは何を考えながらお皿を配っていますか?」
と尋ねました。
渡辺さんは少し戸惑いながら、
「いえ、何も考えていません」
と答えました。
するとシスターは、こう教えてくれたそうです。
「あなたは時間を無駄にしています。なぜ、このお皿を使う人の
幸せを祈りながら配らないのですか。
この世に雑用という仕事はないのですよ」

 こういうやりとりがあったそうです。食事の準備で食卓にお皿を配る、何気ない働きかと思われますが、この働きが誰のために、何のためにあるのかということを考えさせられます。ただ自分の役割を全うするだけでもあるのですが、このシスターは、渡辺さんに「幸せを祈りながら配る」という神様の祝福という隠し味を教えてくださったのではないかと思います。お皿を使う人の幸せを祈りながら、その人が気持ちよく食事をすることができるようにとの真心を込める。何か偉大な行いをしたわけではないけれど、その小さな思いやりの中に、お皿を使っていただく人への美しさが込められているのかと思います。自分が美しい行いをすることができるのではなく、相手の幸せを祈る、相手が美しくなるようにとの祈りを込めるところに、直接目には見えなくても、さりげない隠し味があって、祝福し、神様に感謝していただくことができるようにとの願いが込められているのではないでしょうか。

 あなたがたはと、言われた主イエスの言葉をもう一度思い起こしたいと思います。主イエスが祝福を込めて、私たちを地の塩、世の光としてくださっています。それで自分が何か偉大なことができないとだめだとか、自分にはできないと卑下することはないのです。さりげないこと、同じことをするにしても、私たちは祈ることができます。祈りを込めて、神様の祝福をその人に伝えるかのごとく、世の歩みの中に溶け込んで、歩んでいけば良いのです。たとえ小さい働きでも、目に見える働きが何もできなくても、祈ることはできます。美しい行いはそこから生まれるのです。祈りつつ、地の塩、世の光としてくださる主イエスに委ねて、歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。