2017年2月12日 顕現節第6主日 「和解のきっかけ」

マタイによる福音書5章21~37節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 主イエスの山上の説教から御言葉を聞いております。今日は特に前半の腹を立ててはならないという21節から26節までの御言葉を中心に聞いてまいりたいと思います。

 兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。腹を立てる、つまり怒る者は裁きを受けるから、怒るなと言われます。腹を立てる、怒る。そんなことは日常茶飯事です。誰でも身近に体験していることでしょう。好きで腹を立てて、怒る人というのはいないかと思います。誰だって怒りたくて、怒っているわけではないのです。そして、その怒りには人の数だけ理由があり、人の数だけ、自分の怒りは正当なものであるという思いがあるでしょう。不当な扱いを受けたり、理不尽な目に遭ったりすれば、怒りがこみ上げてきますし、また相手の不正を正すための怒りもあります。それで、この怒るという感情にブレーキが効かないところがあります。怒りが止まらない、自分でも気づいていないところで、制御不能になることがあるわけです。

 主イエスの言葉は続きます。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」腹を立てる者だけではなく、ばか者、愚か者という人についても主イエスは言われます。これらの言葉も腹を立てているところから生まれてくる言葉ですが、ばかというのは、からっぽとかまぬけという意味で、悪口に近い言葉です。愚か者というのは、ならず者とも言いますが、これはもっと強い言葉で、神に捨てられた者という意味合いもつ言葉です。ようするに呪いの言葉です。相手に対して腹を立てる。それがだんだんと悪口になっていき、しまいには、おまえなんて神から呪われてしまえ、つまり、もうおまえなんかどうでもいい、おまえが救われようと救われなかろうと、私にはどうでもいいことだと、完全に相手を拒絶する態度になるわけです。そして、それらの言葉を言う人に対する主イエスの言葉も厳しいものです。裁きを受ける、最高法院に引き渡されるというのは、まだ裁判における範疇です。弁明の機会はあります。ところが、愚か者、おまえなんか神から呪われてしまえという人に対しては、もはや裁判どころか、問答無用に火の地獄に投げ込まれる、その人もまた神様から呪われ、見捨てられ、救いとは真逆の世界に放り込まれると言うのです。

 この主の厳しい言葉は、腹を立ててしまう私たちを不安に陥らせる言葉にも聞こえます。なぜこのような厳しさを持つのか、それが冒頭の21節で言っている主の言葉と関連してくるのです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。これはモーセの十戒にある人を殺してはならないという戒めの言葉です。人を殺したら裁きを受ける、法律で裁かれるというのは、人間の基本的な教えです。当然その裁きも重いのですが。主イエスはこの戒めに続けてというより、この戒めの本質について語っているのです。

 人を殺すとはどういうことか。ただ、直接人を殺めた者だけを指すのではないのだと。それは腹を立てて、その怒りはブレーキが聞かず、ついには神様から呪われてしまえ、見捨てられてしまえという言葉の重みを、人を殺すということと重ねているのです。そのように呪いの思いを抱くことは、もはや神様の祝福における命の豊かさを願うのではなく、神様に呪われ、見捨てられ、神様から与えられる命の豊かさからは離れてしまえというほどの重みがあるのだということです。

 怒りは自分が正しいというところから始まり、不都合なものを取り除こうとする力にまで至ります。あの人のやっていることはおかしい、あの人のやっていることは不正なことである。納得が行かない。注意するだけのことが、だんだんと怒りが込上がってくる経験をしたことがあるかと思います。そうやって、自分を活かし、他者を排除しようとする怒りの本質が見えてくるのです。

 前に、子ども礼拝の中でお話をしたことがあるのですが、アニメのドラえもんの道具に「独裁スイッチ」というものがあります。消えてほしい生物の名前を言いながら、そのボタンを押すと、ボタンを押した者から見て、その生物が完全に消滅してしまうという恐ろしい道具です。このお話の中で、のび太は自分をいじめているスネ夫やジャイアンへの怒りから、彼らを消してしまい、自分のことを厳しくしかりつける母親に不満を抱いて、その怒りから母親も消してしまいます。やがて、すべての生物が自分のことを疎ましく思っているのではないかと思って、怒りがこみ上げてきて、最後には自分以外のすべての生物を消してしまいます。自分にとって不都合で、腹を立てるものが全ていなくなって、すっきりしたかと思えば、のび太はそのスイッチを押して、全ての生物を消してしまったことを後悔します。最後は泣きじゃくるのび太のもとに、自分が消したはずのドラえもんが現れて、そのスイッチは独裁者を懲らしめるためのもので、実際は消す前の状態に戻すことができるというオチで、終わるお話です。

 極端でわかりやすい架空の話ですが、そんな独裁スイッチのようなものを、私たちは心のどこかに持っているのかもしれません。あんな人いなくなればいい、自分に不都合なこと、存在を消したいと思っている。しかし、のび太はそれで幸せにはならず、後悔しました。それがのび太が受けた裁きではないのかと思いました。

 愚か者と言い、言ったものが自分の怒りから来る正義を貫いて、満足したかと思えば、相手をそのように拒絶したことによって自分から失われたものがあった。そのように拒絶して、失ったところから、その存在の大切さに気付かされることがあります。ブレーキきかない怒りは、いずれは全ての存在を拒絶し、消し去ってしまうところにまで到達してしまうのかもしれません。そこで1人取り残されるところに、火の地獄があるのではないでしょうか。

 主イエスはそんなブレーキの効かない怒りを抱いて生きるのではなく、兄弟と、つまり相手と仲直りし、和解して、相手と共に生きる生き方へと私たちを招きます。それも、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(23~24)と言います。祭壇に供え物を献げようとするということは、神様の前に立つことです。神様の前に立つ時、相手への怒りを持ったままで、神様を賛美し、ましてその相手のために祈ることができるだろうかと、私たちに訪ねているようです。さらに、「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」と言います。自分が持つ怒りだけでなく、相手が抱く自分への怒りを思い出したなら、すぐに和解しなさいと言われます。相手からの怒りに対して、怒りで対抗するのではなく、和解せよ、自分の怒りという剣を鞘に治めよということでしょう。

 もちろん、それは難しいことでもあります。すんなり和解できれば、和解したいものです。しかし、自分の怒りも去ることながら、相手の怒りもブレーキが聞かなくっていくのです。より和解への道が遠くなっていきます。この両者の制御できない怒りをもったままに、主は私たちを招かれるのではないのです。

 この怒り、自分の正当性を主張する怒りを受け止めるものが必要です。互いにブレーキがきかない間にたつものが必要です。その間に立たれる方、私たちの怒りの只中に立って下さる方が、私たちに和解へと招くのです。和解へと招くために、間に立たれるのです。そのために主イエスは私たちの只中に来てくださいました。どのようにして、主イエスは私たちの怒りの只中に立ってくださったか、パウロはエフェソの手紙で言います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2:14~17)

 私たちの怒り、ブレーキをかけてくださるのが、主が命を投げ打ってくださったこの十字架です。私たち自身では止められない怒りを、この十字架に委ねて、和解という共に生きる道を主は示されました。自分の怒りに立つ前に、相手からの怒り、反感を思い出すところから、和解への道は開け、それが十字架によって受け止められていることを覚えたいと思います。

 怒りのままに、相手を消せば楽な時もあります。面倒なことを避けたいことはたくさんあります。しかし、相手を自分の怒りで消したところで、自分は生きていくことができない。自分以外のすべてのもの、やがては自分に対する怒りすらも出て、それで自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。

 その怒りは主が負ってくださいます。あなたの怒りのために、主の十字架が建てられました。私たちの怒りを負ってくださり、怒る私たちを赦し、和解へと導いていかれます。十字架の主に委ねて、和解への道を歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。