2017年2月26日 変容主日 「命のありか」

マタイによる福音書17章1~9節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日は変容主日です。来週の灰の水曜日からは主のご受難と十字架を覚え、その主のみ姿に従っていく四旬節を迎えます。先にある歩みが受難や困難であると知れば、私たちはその道を回避したいものです。避けて通り、安全な道を行くというのが世の常です。しかし、キリストを信じて生きるものの道は、受難や困難を避けての歩みではなく、むしろその真っ只中にある道を歩むものであり、そこにキリストの恵みと愛を知って、歩んでいくものの道です。

 それで、今日の主イエスの変容の出来事は、苦難や困難の只中にある者たちに、その道から通り抜けて、全く別の神様の神秘的な世界に自分たちが招かれ、そこで生きていけば大丈夫だということを伝えているのではありません。迫害の只中にある弟子たちの教会の現実、また私たちの現実の歩みにおける苦難や困難の先にあるものが絶望の闇に終わるのではなく、希望の光に繋がっていることを伝えているのです。それがこの変容の出来事を通して、困難や苦難の内にある神様からの答えであると言えます。

 ただ、この変容の場面そのものは謎に包まれています。その様子を山に登った弟子たちの体験から、次のように記されています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(2~3節)。彼らはこの場面に遭遇し、己の目を疑うかのような体験をしました。まるでおとぎ話やアニメに出てくる空想上の出来事です。しかも弟子全員ではなく、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子だけが体験した出来事です。他のもの、全ての者には公にされていない出来事です。そしてあたかも、特別にあなたたち3人だけには、この変容の神秘を体験させてあげるという主の思いがあったように思えてなりません。

 今日の物語は六日の後という見出しから始まっています。六日前に何かがあって、この物語に続いています。六日前に何があったか、それはすぐ前の16章21節で主イエスが弟子たちにご自分の死と復活を予告されたことでした。その21節を読みますと、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。エルサレムに行って、どうなるか。なんと殺されてしまうという衝撃の予告を告げ知らされるのです。弟子のペトロはこの直前に主イエスのことをメシアであると告白しています。あなたは生ける神の子であると。他の力をもった歴代の預言者とは明らかに異なり、メシアへの期待を抱いているユダヤの民の中で、今目の前にいる自分の教師が単に律法を教える教師でもなく、その律法を成就して完成される神の子、メシアであると告白したのです。そのメシアである主イエスがこともあろうに、殺されるためにエルサレムに向かうと聞かされたのでした。それも、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されると。そこで思わず、ペトロが教師である主イエスをいさめようとします。しかし、彼はサタンと呼ばれ、それは人間のことを思うことであって、神のことを思ってはいないと主イエスから言われるのです。神のことというのは、神の御心、神のご計画と言えます。

 そして主イエスの弟子として従っていくということについて主イエスはこう言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16:24~25)この主イエスの言葉は私たちの思いをひっくりかえすのです。わたしのために命を失うというのは、一言で言えば、主イエスの名前によって迫害にあうということです。その苦難や困難の只中で命を失ってしまうのですが、それで命を得ると言われるのです。その道を通って、命を得るのだと言うのです。それが十字架の死を通って、復活の命へのありかに繋がることなのですが、弟子たちは主イエスの復活のことなど考えられなかったでしょう。迫り来る苦難と死の前に、ただたた狼狽しているのです。

 そのような弟子たちの心境の中で、変容の出来事が起こったのでした。主イエスの姿が変わり、そこに旧約の預言者が共にいるという光景が目の当たりになります。モーセとエリヤは、特に力をもった預言者です。イスラエルを救いへと導いていったものたちです。その者たちと主イエスが共にいるということに感激したのでしょうか。そこに仮小屋を建てて、記念としようとするペトロの姿があります。この感激を、神秘を胸の内にしまっておこうと。しかし、神様はこの出来事を、その彼らの胸の内にしまっておこうとするようなことはなさりませんでした。ここで彼らに対して主イエスのまことの姿を現し、それで終りとしようとはなさらなかったのです。雲に覆われて、天から声が聞こえ、これに聞けという託宣を弟子たちは受けるのです。その声の前に弟子たちはひれ伏し、非常に恐れました。恐れてからひれ伏したのではなく、まずひれ伏したのです。神様の声の前に、彼らが恐れのあまり、ひれ伏したというのではなく、その声の前にひれ伏させられた、そのような神様の力が彼らに向けられたのでしょう。それ故に恐れが生じたのです。

 その声はこれに聞けと彼らに言います。主イエスに聞け、主イエスに委ねよという託宣でした。しかし、彼らの内にあるのは恐れであり、その恐れを克服して、自分たちで立ち上がって、主イエスに聞き従っていったのではないのです。そこに残られた主イエスの方から彼らに近づいてきて、彼らにこう言うのです。「起きなさい。恐れることはない。」(7節)。もう何も恐れることはないから、安心して起きなさいとは言われません。まず起きなさいと言われます。この順序も、先ほどの、弟子たちが「ひれ伏し、非常に恐れ」ということと重なってまいります。彼らの意志や心情が先に動いたのではなく、まずひれ伏せ、起きなさいという神様の導き、招きが最初にあるのです。困難や不安の中にあって、自分自身の中で迷い続け、自分自身の力や思いの中で歩んでいくのではないのだと。安全な道を探し、右往左往して本来の目的を失うのではないのだと。まず御言葉に聞き従い、祈りなさいという神様の招きがあるのです。そこに立ち返っていくためにも、まず自分自身が神様の前に打ち崩されて、ひれ伏すのです。主イエスの受難と十字架の死を聞かされ、三日目に復活するという主の愛と恵みを聞いて、受け取ることができなかった弟子たちに、主イエスの変容を体験させ、彼らの思いを打ち砕きました。受難における苦しみが続き、十字架の死によって、全てが絶望の内に終わってしまうのではないと。その最終地点と思われる絶望の死のところから、復活の命に至る希望の光へと続いているのです。

 その復活の希望を主イエスは弟子たちに示されるのです。しかし、復活の希望は彼らがそれを理解して、受け止め、それで恐れがなくなったのではないのです。後に、主イエスの復活を彼らは自分たちから信じることができなかったからです。婦人たちの証言をたわごとだと思って、信じることはできなかったのです。そんな彼らの疑いと恐れの中に、主イエスの方から近づいて、復活のみ姿を顕わされるのです。

 そして、今同じように、主イエスの方から近づいてきて、恐れと不安の中にある彼らを立ち起こすのです。あなたがたは私によって起きることができるのだと。起きることができたのだから、もはや恐れることはないと。恐れが完全になくなって、起き上がることができたのではないのです。恐れがあろうとも、あたかもその恐れを超えるかのように、彼らは主によって立ち起こされたのです。あなた方は起きることができた。だから、困難や苦難があろうとも、恐れることはないのだと。その只中で、復活があることを忘れないでほしいという、主のメッセージがここにあるのです。

 この変容の出来事は迫害下の中にあった教会を励まし、人々を力づけたことでしょう。ペトロはこの体験を今日の第2日課の中で記しています。迫害の中にあって、困難や苦難しか見えてこない。先行きが見えず、何のために伝導しているのか、迫害の恐怖もたくさん体験していったことでしょう。その只中にあろうとも、自分たちを立ち起こして下さる方が共におられるという希望を抱き続けて、教会は歩んでいったのだと思います。苦難や困難で終わるのではない。その道を通って、主は復活という新しい命の道を弟子たちに、そして私たちに御言葉を通して、導いていかれるのです。だから、私たちは御言葉に聞き続けていくのです。

 今日はこの後、会員総会があります。新しい一年の歩みを、神様の御心とご計画の内に歩ませていただけるよう祈りつつ、私たちはたとえどのような困難や苦難の中に教会が置かれていようとも、この教会を立ち起こしてくださる方の招きとその声を聞き続けてまいりたいと思います。私たちはペトロたちと同じ心境を抱いているかと思います。先行きが見えない教会の状況にあって、苦難や大変さばかりが目立つ教会の姿があるからです。でも、それらの状況や姿を通して、主は私たちの教会の活動と伝道をちゃんと導いてくださいます。落ち込んだとしても、そこから起こしてくださる方が共にいてくださいます。そして私たちも主によって変えられていくのです。神の御心に生きていくものとして変えられていくのです。だから、「起きなさい、恐れることはない」。この招きに信頼して、共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。