2017年3月5日 四旬節第1主日「自分が変えられるため」

 マタイによる福音書4章1~11節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日は四旬節に入って最初の主日を迎えました。この四旬節の第1主日には必ず主イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けた聖書箇所から御言葉を聞きます。この誘惑というのは試練という意味でもありますが、主イエスは「悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」(1節)とありますように、それは主イエスの意志ではなく、“霊”に導かれて、すなわち神様の御心によってこの荒野に導かれて、悪魔から誘惑を受けたというのです。

 主イエスは神様の御心に従って、悪魔から誘惑を受けるために荒野に行き、「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えら」ました。それは私たちと同じように最も弱い状況に陥っているということです。無論、主イエスは悪魔の誘惑の力をご存知だったでしょう。そんな誘惑の力を知っていれば、危険だからふつうは回避します。関わらないようにします。しかし、神様の御心は、敢えてそのことをご存知で、主イエスを荒野に遣わされて、誘惑を受けさせるのです。それも万全な神様の全能の力を使って、誘惑に立ち向かって打ち勝ったのではなく、私たちと同じ弱さを抱えて、悪魔からの誘惑を受けられたのです。ヘブライ人の手紙4章14~16節にこういう言葉があります。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」主イエスは私たちの弱さという同じところに立たれたということです。神の子であるから、誘惑とは無関係の生涯を歩まれ、また誘惑を予め回避できるだけの力と知恵をもって、人を救うために来られたのではないのです。私たちの弱さをご自分の弱さとして、担ってくださるために来られたのです。続く「憐れみを受け」という神様の憐れみというのは、単にその人の苦しみを解放してくれる神様の力という意味ではなく私たちの弱さや苦しみをご自分が担われ、同じところに、同じ思いを抱いて下さるところから来る憐れみなのです。しかし、主イエスはそこで罪を犯されませんでした。私たちと同じ弱さに立ち、誘惑を受けられて、罪を犯し、罪人になったのではないのです。罪を甘んじて見過ごされたのではなく、この罪へと誘う誘惑に打ち勝ったことを私たちに告げるのです。

 それで、今日の福音には、主イエスが誘惑を退けた3つの出来事が記されています。ひとつ目の誘惑はパンの問題、すなわち食料の問題です。飢えている主イエスに、「神の子ならそのへんの石ころをパンに変えたらどうだ」(3節)と誘惑します。悪魔も主イエスの正体を既に知っているのですから、神の子ならいとも簡単にできるだろうと言われるのです。何も他人の食料を奪えとは言っていません。空腹で食料を求めているなら、その辺のものを食料に変えて、満たせばよいではないか。簡単なことではないかと言うのです。神様から与えられるものではなく、それは自分の力でその空腹を満たす力を発揮すればよいではないかということです。

 ここで世界の食料事情について説明する気はありませんが、この主イエスの力をもってすれば、世界の食糧問題は解決するのではないかと思わされます。それは一見理に適っていることであると言えるでしょう。現に、食料がなくて苦しんでいる人はいるわけです。その人たちを助けるために、自分の権威を使って助けたらどうだと誘惑するのです。しかし、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(4節)」と、旧約聖書の御言葉を用いて誘惑を退けます。自分の価値観や権威の力を使えば、その食糧問題は解決するかもしれません。食料は行き渡るようになるのかもしれません。しかし、人を真に生かすのは、神の言葉であると言います。神の言葉は、必要な糧を私たちに与えてくださる祝福の糧として、感謝して頂きなさいということを私たちに教えます。それが自分の力で得たものではなく、与えられたものとして、感謝を顕しなさいと言います。しかしそれが、なぜ人を生かすことになるのか。それよりも、自分の力を使って、世界の食糧問題を解決したほうが、よっぽど神様の御心を行っているではないかと思わないでしょうか。そのように思わせる悪魔の誘惑がありますが、もちろんここで主イエスは食べることを否定して、神様の御言葉だけを聞きなさいと言っているのではありません。

 問題は自分の力を歯止めなく発揮さえすれば、解決できるという希薄さにあるのです。ようするに、その問題を解決するために、手段を選ばなくなるということです。自分が力をはっきすれば、空腹が満たされ、食糧問題はなくなるという結果論だけに固執してしまい、その本質が問われてきます。人間、手段を選ばなくなると、雑になってきます。極端な話、食べ物さえあれば大丈夫だろう、という感覚に陥り、食品偽造の問題なども出てくるでしょう。手段を選ばず、自分の価値観で都合のいいように力を発揮して、食料を得るところに、そのような大きな問題が後になって見出されてくるのです。神の言葉が直接空腹を満たしてくれるわけではなりませんが、神の言葉はその自分の価値観や正しさに危機を促し、命を与えてくれる食料の恵みに気づかせ、食料が与えられればいいという結果論に固執する私たちの思いを開放し、真に生きることができる命の御言葉です。空腹を満たすために、食糧さえあれば良いという思いは、命を得させる食糧を軽く扱い、結果命を軽んじていることと変わらないのです。ただ命を持続させるための食糧だけで私たちは生きているのではなく、その命を発揮するため、命を使うためのエネルギーとなる大切な食料を恵みとしていただくということを神の言葉は私たちに告げるのです。主イエスはその神の言葉に信頼し、悪魔の誘惑を退けます。

ふたつ目の誘惑は、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、きっと神様が天使たちを遣わして助けてくれるに違いないだろうという内容です。それは、本当に神様があなたを愛しているなら、神様はきっと助けてくれるに違いないだろうということです。しかも今度は悪魔も聖書の御言葉を使って誘惑します。神様が本当にあなたを愛しているなら、きっとあなたを助けてくれるはずだ。それを証明するために飛び降りてみたらどうだと言います。しかし、主イエスはそれを、神を試みる罪であると言います。わざと神様を試すようなことを私たちはしないかもしれません。ただここには、神様への人間の願いが込められています。神様が愛してくれているんだから、きっとうまくいく、きっと自分の願いを叶えてくれるために、こういう結果にしてくださるだろうとか、きっと自分の祈った通りのことが実現してくださるに違いないと。これも、先ほどのパンの誘惑と似ています。神様にお願いすると言いつつも、実は自分の思いの中で神様の御心を印象操作しているわけです。それを神様が自分を愛してくれているからというお墨付きを自分に与えて、神様を試しているわけです。それは本当の意味での神様から与えられる愛の御心ではないのです。

 最後の誘惑は、国々の繁栄ぶりを見せて、悪魔にひれ伏せば、これらを与えようと言われるものです。国々の繁栄ぶりというのは、自分の欲しいものです。誰でも欲を持っていますが、その根深い問題は貪欲の危険があるということです。ようするに、欲はつきないということです。ただこの誘惑の焦点は悪魔にひれ伏すということです。このひれ伏すというのは、礼拝するということです。私たちは神様を礼拝するためにここに招かれているわけですが、神様から離れて、悪魔を礼拝せよと誘惑するのです。悪魔を礼拝すれば、自分の願っているものが何でも手に入る。自分の思い描く世界が築けるわけです。そこで自分の価値観や正義が認められ、自己実現の道を確保できるということです。この悪魔にひれ伏すというのは、偶像崇拝とも言えるかもしれませんが、具体的に何かを崇めるというより、自分から見て、自分の思いの中で心地よいもの、便利なものにひれ伏すということです。要は自分の力に頼り、神様の御心と離れる、いや神様の御心はきっとこうに違いないと言って、自分の価値観を土台とした神賛美こそが悪魔にひれ伏すということはないでしょうか。しかし、主イエスは『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(10節)と言って、この誘惑を退けられました。主を拝み、ただ主に仕えよ、もちろんそれがこの礼拝ということでもあるのですが、ただ神様はすばらしいから拝みなさいと言っているのではなくて、ただ主に仕えよと主は言われます。自分ではなくて、主に仕えるということは、そこには自分の思いはないのです。自分の思い通りになる願いの延長線上に、神様の御心があるということではないのです。ただ主に仕えよ、それは徹底して、自分の願いや価値観から離れて、神様の御心を求めて祈り、賛美することです。時には自分の思いが全て覆され、しかも自分が願っていたこととは反対の道に私たちを導くかもしれません。そこに妥協はないのです。

 でもそんな道を私たちは希望するでしょうか。行きたくないところに、行かせられる神様の御心に委ねることができるでしょうか。弱さを抱えず、苦難や困難とはかけ離れた自分の描く道を歩んで行きたいと願うでしょう。心地よいところにいたいでしょう。しかし、それは表面上の自分の人生しか見れていないわけです。痛みを覚えて、その悪いところを発見できるように、表面だけではない、自分の人生全体を見つめておられ、その全体を導いてくださる方がおられるのです。神様を拝み、神様に仕えるというのは、そんな自分の人生全体を見つめていてくださり、さらにその自分の人生に常に共にいて関わってくださっているということを知ることでもあります。神様との関係を通して、本当の自分と出会うきっかけが与えられるのではないでしょうか。一見厳しい道へと導くかもしれませんが、その道にあっても神様は絶対に見捨てないという愛が私たちに示されているのです。

 主イエスはこれらの誘惑を退けて、私たちと神様との関係を示してくださいました。これから四旬節を過ごす私たちは、主イエスのご受難と十字架を覚えて歩んでまいりますが、主イエスが誘惑に遭われ、私たちと同じところに立たれて、誘惑を退け、神様への信頼の内に歩まれていったことは、私たちに誘惑に対する忍耐力を備えよと言っているのではなく、誘惑の只中にあって、自分の弱さ、小ささを知り、真に自分を生かしてくださる方に目を向けていくことの大切さを示しています。誘惑はいかにもつじつまのあった、納得のいく出来事を提供してくるでしょう。しかし、それは表面上の心地よさだけを映し出し、全体を映し出してはいないのです。その全体を見つめられ、本質を問われるのは神様の御言葉です。主イエスは神様を愛し、私たちを愛されるという本質からぶれることなく、受難と十字架の道を歩んでいかれるのです。主イエスのこの姿を通して、私たちを愛され、真に私たちを生かしてくださる神様の御心を祈り求めて、御言葉に聞いて歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。