2017年3月12日 四旬節第2主日 「神の願い」

マタイによる福音書20章17~28節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書で主イエスは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(26~27節)と言われます。仕えるという言葉がディアコニアという言葉から来ていて、奉仕と訳される言葉です。皆に奉仕しなさい、奉仕に生きなさいと主イエスは弟子たちに言ってはいますが、その教えの本質は次の28節の言葉「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」という主イエスの言葉にあります。27節と28節の言葉はセットになっていて、切り離すことはできないのです。それが、「同じように」という言葉で繋がっているからです。28節の後に、27節を読むと「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」となります。ただ仕えなさい、奉仕に生きなさいと主イエスが言っておられるのではなく、主イエスご自身が自分の命を捧げるため、すなわち自分が十字架にかかって死んだように、あなたがたも皆に仕えなさいと言われるのです。

 主イエスが十字架の死を遂げたように、私たちも十字架の死を遂げなさいと言っているのでしょうか。いや、そんなことは不可能だと思うでしょう。自分が死ぬだなんて考えられない。主イエスが神の子だから、十字架の死を成し遂げることができたのであって、私たち人間には到底できない。それが率直な思いでしょう。しかし、主イエスの目的は、ただ死ぬことが目的ではなく、仕えるためであるということです。諦めて死ぬということではなくて、仕えるための死であるいうことなのです。私たちは主イエスの死を通して、どのようにして隣人に仕えていくのでしょうか。

 主イエスがこの話をされたきっかけは、3度目の受難と復活の予告をされた直後に、ゼベダイの息子たちの母親が主イエスにお願いをしたことでした。ゼベダイの息子たちというのは、ヤコブとヨハネのことです。主イエスがペトロとヤコブとヨハネだけを山に連れて、変容の出来事を体験させた時の、(マタイ17:1~13)あのふたりの弟子のことです。そして、この母親というのは、おそらく主イエスの母親のマリアの姉妹で、後の復活物語の中で、マグダラのマリアと登場するサロメのことではないかと言われている人物です。主イエスに非常に近い関係のある人物であり、ふたりの息子もまた、ペトロと並んで、主イエスに特に気にかけられている弟子です。この母親の願いは率直なものでした。主イエスの受難と復活の予告を、おそらく息子たちから聞いたのでしょう、それを聞いた彼女は、主イエスがエルサレムに行き、新しいイスラエル王国の王様となって、国々を治める救い主になるのであろうと受けとめ、その暁には、自分の息子たちを主イエスの最も近いところに置いてくださいと願いでたわけです。愛する息子たちを思う親心でしょうか、その思いもあったでしょうが、息子たちを側においてもらって、これからも存分に主イエスの働きに仕えていくことができるように、息子たちに役割を与えて、活躍させてくださいと願ったのかと思います。

 主イエスは答えます。「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(23節)わたしの近くにいるものは、私が決めることではないのだと。そして主イエスは「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(22節)と言われます。この杯というのは、旧約聖書にも出てきますが、有名なのは、あのゲツセマネの祈りの中で、主イエスが「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎさらせてください。」(マタイ26:39)と言われた杯のことを思い浮かべるかと思います。その杯、主イエスが飲む杯というのは、主イエスの受難予告の中にある十字架の死のことです。あなたもこの杯が飲めるかというのは、あなたも私と同じように、死を遂げることができるかと言っていることです。ふたりはその意味を理解することなく返事をしますが、彼らがその杯を飲む、すなわち殉教するのは、主イエスの復活の後のことです。彼ら含め、12弟子たちは主イエスの十字架のもとから逃げ去ってしまうからです。

 ただここでは、このようなお願いをしたゼベダイの息子たちと母親が特別に無理解で、勘違いをしていたわけではないようです。他の弟子たちは「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」(24節)とあるように、あたかもヤコブとヨハネが抜けがけをして、主イエスに取り入っているように聞こえたわけです。この嫉妬心の基は、自分たちも主イエスの近くにいたいという思いから来ているのでしょうから、このふたりの姿と何ら変わりはないのです。それに、彼らも主イエスの十字架の前から逃げさってしまうのです。

 しかし、主イエスはふたりに「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」と言われました。あなたがたは私が飲む杯、つまり死とは無関係であると言われたのではないのです。私たちが全て、あなたがたの分まで杯を飲み干すから、あなたがたはそれと無縁の世界で、私の教えを述べなさいと言っているのでもないのです。それが先ほど言いました、キリストと同じように、仕えるための死を迎えるということです。

 弟子たちの思いを受け止めた主イエスは、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われました。それはあたかも、今のあなたたちの姿は、その「異邦人」の姿と重なっていると言われているかのようです。異邦人たちが権力争いをし、力のある者が頂点に立って、力無きものを支配するように、あなたたちも自分が頂点に立ち、他の者を支配したいと願っているのだと。しかし、あなたがたは、キリスト者であるあなたがたはそうであってはならない。支配するのではなく、仕えるものになりなさいと言われ、それは世の一般のサービスとか、ボランティアという意味ではなくて、主イエスが仕えたように、あなたがたも仕えていきなさいということでした。そして、主イエスは、私たちに仕えるために十字架の死を遂げるのです。

 この主イエスの仕えるための十字架の死は、私たちへの愛の姿であると言えます。私たちを愛するために、私たちに仕えてくださり、私たちのために死んでくださったということです。自分の命ではなく、他者の命を豊かに生きながらえさせるために、自分の命を捧げたというのです。確かに、それは他者を支配するのとは異なる姿です。支配者は何より、自分の命を守ります。自分の命を確保した上で、他者の命を守るために、他者を支配するでしょう。主体は自分自身です。自分への愛がまず先にあるのです。自分への愛が主体とするところには、自分の価値観が土台にあります。自分ありきで他者があるのです。

 しかし、主イエスはその道を選びませんでした。母親の願いのように、そのままイスラエルの王になって、人間を支配する道もあったでしょう。その全能の力で人間を支配し、この地上を治めることもできたはずです。しかし、主イエスはその道とは真逆の道、十字架の死の道を選ばれ、人々に仕える道を選ばれました。それはどういうことか言いますと、主イエスは神の子でありながら、すべてを捨てられたということです。その力を捨てて、私たちを愛するために仕えてくださったということです。ありあまる全能の力を用いて私たちを生かし、導くためではなく、すべてを捨てて、私たちをそのままに受け止めてくださり、愛してくださるために十字架の死にかかられたということです。それが仕えるための死でした。私たちを受け止め、愛するためにすべてを捨てられたのです。神様の御心を強要するために、私たちの只中に来てくださったのではなく、この私たち一人ひとりを本当に大切に愛してくださり、そのままに受け止めてくださるために、十字架の死を通して、愛し抜いてくださっているのです。

 青山学院大学でチャプレンをされている日本キリスト教団の牧師で塩谷直也先生という方が、ご自身の体験をもとにして書かれた聖書のお話の本があるのですが、その中で、先生が生徒たちのために入念に準備した聖書の授業の内容に対して、生徒たちの空振りな反応を見て、最初は絶句しているお話があります。授業でちゃんと教えたはずなのに、生徒たちは全然自分の期待通りの受け止め方をしていない、分かってくれていない。しかし、同時にそこにはありのままの生徒の姿があり、自分はその生徒の顔を見てはいなかったということを話されています。それで、そのお話の中で、主イエスの十字架の愛についてこう言われています。「死の後に、愛が生まれてくる。愛とは、持っているものを提供することでも、感動を与えることでもないみたい。持っているものが全て通用しないと分かった時、私が死ぬ時、初めて香り出すものなのだ。そう、愛には常に死の匂いがつきまとっている。イエスが十字架の死を通してでしか私たちに愛を伝えられなかったように。思えばイエスの生涯には、常に十字架という死の匂いが満ちていた。」(塩谷直也『迷っているけど着くはずだ』新教出版社 2009 77頁)仕え、愛するとこには、死の匂いがつきまとっているというのは驚く表現ですが、しかし、それは自分の持っているもので、それに過信して相手を支配するかのように、相手と関わるのではなく、むしろ相手を受け入れるために、自分の持っているものを捨てて、相手をそのままに愛するということであると言われます。

主イエスの十字架の死を通して、私たちに示された愛の姿は、私たちを受け入れてくださる恵みであり、希望です。そして、死の後に愛が生まれると言われるように、死んで全て滅んで終わったわけではないのです。主イエスは死の先にある復活の命を既に私たちに示してくださっているのです。この命は、私をそのままに受け入れてくださった愛から来る命であり、今度は私たちが仕えていくために用いるための命です。

 ヨハネ福音書で主イエスは言われます。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12:24~26)死ねば多くの実を結ぶ、死の後に生まれた愛を主イエスは仕えることを通して、私たちに示されました。捨てて、死んで終わりではなく、そこから実りが生じるのです。主イエスが示してくださったこの愛の内に、共に生きてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。