2017年3月19日 四旬節第3主日 「あなたの内から泉が湧き出る」

ヨハネによる福音書4章5~26節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日の福音書は、サマリアの女性と主イエスの物語と言われるものですが、長い箇所に思えて、実はシンプルなお話であることに気づかされます。このお話の中には主イエスのたとえ話や癒し、奇跡は出てきません。何が起こっていたかというと、最後の26節で「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と主イエスが言われるように、ふたりは話をしている、会話をしているだけなのです。どちらかが一方的に話をしているのではないのです。そして、ひとつひとつの会話の場面が描かれていて、だんだんとサマリアの女性の心境が変化していきます。そういう意味では奇跡物語と言えるのかもしれません。でも、それは人が思い描くような環境ががらっと変わるようなものではなく、少しずつ少しずつ、それこそ詩篇37編23節の中で「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。」という御言葉のように、主イエスがこのサマリアの女性と共におられて、この女性の一歩一歩を、彼女のペースに合わせて、歩んでいてくださるのです。それがこの一連の会話のやりとりの中に現れています。

 さて、主イエスはサマリア地方のシガルという町にやってこられました。どこから来たかというと、今日の福音書の4章の初めから読めばわかりますが、ユダヤ地方から来られたのでした。それは、ファリサイ派という後に主イエスに敵意を持つ人々から避けるためであったようです。本当の目的地はガリラヤですが、その道中にサマリアを通らねばならず、その旅を経て主イエスは旅の疲れを覚えたと言います。通らねばならずという表現は、できれば避けたい道です。それがユダヤ人とサマリア人の溝の深さを表すひとつの表現です。

 主イエスが疲れを覚えて、ヤコブの井戸と言われる井戸のそばに座っていたのは正午ごろでした。とても暑い時間帯で、外出している人はほとんどいなかったであろうと言われています。主イエスの弟子たちは買い物に行っていました。だから主イエスの他には人の姿はほとんどなく、ましてユダヤ人は一人もいなかったでしょう。そこに一人のサマリア人の女性が水をくみに来られました。そこで主イエスは彼女に水を飲ませてくださいと声をかけます。彼女は非常に驚いたかと思います。お互いの民族はそんな会話すらしないほど、交流がなかったからです。それと、彼女自身、他の誰ともあまり交流がなかったからだと思います。しかも相手は男性で、男性から女性に気軽に声をかける習慣もなかったそうですから、尚更驚いたことでしょう。ようするに、彼女にとって、ユダヤ人の男性である主イエスから声をかけられ、話し相手になったことは、到底ありえないことだったわけです。自分にとって一番話をするのにふさわしくなく、遠い人物だったのでしょう。その人から声をかけられたのです。

 だから、なぜ私があなたに水をやることになるのですかと彼女は質問します。そうすると、主イエスは「あなたこそ、私から水を必要とし、水を求めるのではないか」と訪ねます。すると彼女は「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と実際の目に見える水のことを求めます。さらに自分たちが先祖代々受け継がれてきたヤコブの井戸から水を飲んで生活してきたことを話します。ヤコブはアブラハムの孫で、ユダヤ人とサマリア人の共通の先祖です。ヤコブが必死になって守ってきた井戸から、代々ユダヤ人は生永らえてきたのです。その井戸の水よりも偉大なものが他にあるのだろうかと訪ねます。そうずると主イエスは言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ここには飲んでも渇く水と、飲んだら渇かない水のことを言われ、渇くということを主イエスは言われます。喉を潤すために水を飲みますが、それはまた渇きを覚えます。渇いたらまた飲んで潤す。その繰り返しでしょう。しかし、主イエスは、飲んだら渇かない水のことを言うのです。それが主イエスが言われる生きた水です。彼女はそんな水があるのなら、是非ともほしいものだと思ったのでしょう、「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言います。しかし、主イエスがその生きた、永遠に渇かない水を示したのは、彼女の根本にある渇きに語りかけているからです。それがこの先のやりとりにある彼女の夫の問題でした。

 主イエスの方から彼女に語りかけ、彼女にはかつて5人の夫がいて、今6人目がいるが、実際はその人ではないと。その5人の夫が彼女にとっての飲んでも渇く水であって、今は6人目の男性が飲んでも渇く水になっているのだということです。しかし、主イエスは彼女の夫のことで問い詰めたり、裁いたりはしません。それが罪だとは言わないのです。あなたには渇きがあるとは直接言わず、飲んでも渇く水があり、実はその水によって渇きを覚えている彼女の現状を主イエスは見ておられ、知っておられるのです。そして、そのことを「ありのまま」を言った彼女の姿がありました。彼女自身が渇いた存在ということではなくて、飲んでも渇いてしまう彼女のありのままの姿を彼女の口から主イエスに話したのです。実は潤すように見える水が渇きを招く原因だというのです。でも、それはそのものが渇きというよりは、彼女の心の有り様の中にあるのです。

 そして、主イエスは彼女と同じように、私たち自身が渇いた存在として見ておられるのではなく、渇きをなんとかして満たそうとしている心の動きに渇きを見出しているのです。確かに私たちは渇きを満たしたいものです。そのために何かを求めて、日々歩んでいるのかもしれません。自分の渇きを真に満たしてくれるものの中にずっといたいと思うものです。彼女もそのために夫を求めてきたのでしょう。

 しかし、主イエスの与える渇かぬ生きた水というのは、自分が思い描く渇きをすべて満たしてくれる水ということではなく、そのように自分の求める渇きに気づかされ、その渇きをありのままに訴えることができる方が共にいるということを私たちに示しているものです。自分の力で、自分の思うがままに渇きを満たすものを求めようとする心の動きに、真の渇きを覚えるのです。自分は常に満たされていて、潤っていなくてはならない。自分が潤っていれば、自分の存在が認められ、人から評価される。そのような思いの中に疲れを覚え、求めても渇いている自分の姿に気づかされるのです。

 彼女の渇きが満たされたのは、彼女の新しい夫の存在ではありませんでした。むしろそれは今の自分の夫ではなく、今まで5人いた夫の中に、それらの夫に求めている自分の渇きに気づかされ、ありのままに話すことができたことではないでしょうか。最初に言いましたが、主イエスは彼女と話しているだけです。特別に彼女に何かを与えたわけではないのです。でも、彼女はその主イエスの存在によって、ありのままを話せる方の存在を通して、自分の心の内に生きた水が与えられ、それが泉となって、彼女を満たしたのです。

 この彼女に与えられた生きた水、それが泉となったのは、彼女自身がその生きた水を通して、自分自身を真に知ることができたからではないでしょう。渇きのない潤っている時だけの自分ではないといけないという不安や悩みから解放され、そのありのままの自分の存在が認められた事からくる潤いが彼女の心に与えられたからでしょう。それが彼女に与えられた生きた水であり、それがキリストを通して私たちにも与えられているのです。

 そして何よりも、この主イエスも渇きを覚えられ、最後は十字架場で渇きを覚えて、死なれたのです。渇きとは縁のない潤いだけがある救いの道を私たちに示されたのではなく、むしろ渇きを渇きとして身に受けられて、生涯を送られました。それは渇きがあり、欠点だらけの私たちをそのままに受けとめられて、愛してくださるために、己が渇きを背負われて、成し遂げた十字架の業だったのです。その渇く姿の中に主イエスの受難の姿があり、また私たちの渇きから来る不安や苦しみがあります。

 ルカ福音書にエマオの物語があります。(24章)これもまた主イエスと共に歩きながら話をしている弟子と主イエスの物語です。ここでも主イエスこそが自分たちの渇きを満たしてくれるメシアではなかったのか、それがなぜ苦しみを受けて十字架にかかって死んでしまったのかと嘆いているやりとりがあります。その弟子たちの渇きを受け止めつつ、主イエスは彼らに言います。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」苦しみを受けて、栄光に入るのだと。苦しみが苦しみのままに終わるのではない。いつまでも満たされない渇きが続くわけではなく、その苦しみ、渇きを通って、そこから新しく湧き出る泉、渇ききっていて、到底そこからは湧き出ることはないであろう渇きの基から、泉は湧き出るのです。それが主の復活を通して与えられる新しい命によって明らかになってくるのです。

 渇きのある私たちと主は今も歩き続けてくださいます。そして、ありのままの渇いている自分と共にいてくださいます。その主イエスから永遠に湧き出る生きた水が与えられ、あなたの内から泉となります。それはその水を与えてくださる主イエスがどんなときにも共にいて繋がっていてくださるからです。私たちの声を、祈りを聞いて受け止めてくださるからです。主と共に一歩一歩を歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。