2017年3月26日 四旬節第4主日「委ねて、見る」

ヨハネによる福音書9章13~25節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 ヨハネによる福音書9章の一部分から御言葉を聞きましたが、この9章全体が一つの大きな物語となっています。順を追って、盲人であった方のお話が続いています。この盲人は主イエスによって目が見えるようになるのですが、ただ見えるようになって喜んで終わったのではなく、主イエスとは誰かということが分かるようになっていき、最後は「主よ、信じます」(9:38)と言って信仰を告白し、神様と共に生きていく姿に変えられていくプロセスが描かれているのです。この盲人の主イエスの呼び方を見ても分かります。9章全体から見ますと、11節でイエスという方、17節では預言者、33節では神のもとから来られた方、そして38節で主よ、信じます。と、だんだんと変えられていきます。最後に信じますというこの言葉は、この盲人が主イエスという方を知り、神の恵みを知り、それ見ることができたということを告げています。肉眼の目が癒されたことを告げているのではなく、主イエスを知り、神様の恵みを知ったことに対する信仰の目が開かれたことを告白しているのです。

 しかし、この盲人であった方を主イエスへと導き、助けていった人はいませんでした。この盲人の方の目が癒されたことを共に喜んでくださる人もいませんでしたし、両親ですら心から喜んでいる姿を見せてはいません。9章の初めから見てまいりますと、この盲人であった人は、座って物乞いをしていた人でありました。おそらく道端に座っていて、その姿を通りがかる人が見ていたのでしょう。人々が目の見えないこの人の姿を見て、同情はしていたのかもしれません。目が見えず、生計が立てられなくて、とても辛い毎日を送っているあの人は可哀想だと。その道端に主イエスと弟子たちが通りがかり、その盲人と出会います。その盲人を見て弟子たちは主イエスに訪ねます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(9:2)当時目が見えないなどの病は、罪を犯したが故に神様に呪われ、その結果病にかかっているという人々の認識がありました。ひらたく言えば、因果応報ということです。罪を犯せば、その報いを自分が受ける。罪を犯した代償として、病にかかるということを人々は信じていたようです。だから、病にある人は神様から祝福されていない人という見方があったわけです。逆に言えば、健康な自分たちは神様から祝福され、罪を犯していないという自覚があったわけです。罪を犯してしまったとしても、あの人よりはましだ、あの人よりは軽いという具合に。自分は大丈夫だという安心感を、自分自身の内にというよりは、罪を犯している人たちを見て思うこともあったのでしょう。少なくとも、自分はそこにはいない。その目が見えないという暗闇の中にはいないという自覚です。しかし、この弟子たちの問いに対して、主イエスはこう言うのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)目が見えないのは、罪を犯したことが原因ではないとはっきりと言われます。この人に罪がないと言っているのではなくて、この人の目が見えないことは罪を犯したことが原因ではないと、弟子たちや人々が信じていたことを否定します。そして、続けて、「神の業がこの人に現れるためである。」と言われました。つまり、主イエスは目が見えないということについて、その原因や理由を述べているのではなくて、その目的を告げているのです。これは同じ境遇に立たされた時に、かなり違う見方となります。

 私たちは苦難や困難に遭遇し、理不尽な目に合いますと、なぜ自分がこんな目に合わないといけないのかと言って、そのことに対する原因や理由を問おうとするでしょう。あの時こうしていれば、あの時こうなっていれば、こうはならなかったという自分なりの見解を見出し、それに対する答えが見つかる時もあれば、そうでない時もあります。答えが見つかれば、それは自業自得という言葉を思い浮かべるかもしれませんが、答えが見つからなければ、もっと遡って問おうとするかもしれません。そうすると、直接的な事柄ではなくて、間接的な事柄と結びつけて、今の自分の理不尽さに対する見解を見出すのかもしれません。それがあんな悪いことをしたから罰が当たってこんな目に遭っているという因果応報的な考えに至ります。自業自得や因果応報というのは、原因や理由を問おうとするときによく出てくる言葉かもしれません。しかし、この出来事が目的であるというと、かなり違ってきます。原因や理由は過去に遡り、過去の歩みを振り返りますが、目的は前に進むもので、ゴールです。ようするに、到達点があるわけです。それが神の業が現れるためであったという主イエスの言葉です。

 そして主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、その人にシロアムという池に行って目を洗うように指示し、その人が目を洗うと目が見えるようになりました。しかし、目が見えるようになった盲人を人々が見て、一緒に喜んだのではなく、その人の変化に大変驚き、それを解明してもらうために、宗教指導者であったファリサイ派の人々のところに連れて行きました。彼らの意見は、安息日に目を癒すという医療行為を行った主イエスは安息日を守らない者で、神から来たものではない、つまり救い主ではないというものや、罪のある者がなぜこんなしるしを行うことができるのかということでした。盲人であった人は彼らの質問に答えますが、彼らは「この人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。」(18節)と言うように、主イエスの業を信じませんでした。そしてその原因を彼の両親に訪ねますが、両親は彼らを恐れて、自分たちには関わりのないことであるという反応をします。彼らが両親にも訪ねたのは、弟子たちが最初に両親が罪を犯したからですかと主イエスに聞いたことと同じように、ファリサイ派の人たちも、あの盲人かあるいは彼の両親が罪を犯して、彼が盲人になったのではないかという思いがあったことでしょう。本人だけの問題ではなく、その身内の信仰も問われてくる。そうやって、原因や理由だけを追求していったのです。

 再び、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言いました。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 (24節)あの者、主イエスは罪人だ。だから、あの者があなたの目を見えるようにしたわけではないはずだ。あの者は何者で、なぜあなたは見えるようになったのか、正直に答えなさいと、厳しい追求の声が続きます。そして彼は答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)まだ彼は、主イエスがどういう人か、罪人かどうか分かっていない。それは使徒信条や二ケア信条の言葉をまだはっきりと分かっていないということと同じです。はっきりと整理されて、ひとつひとつの内容を告白できるということではないことです。最初は誰しもがそうでしょう。しかし、信仰が告白できるのは、長い信仰生活を送ったからとか、神学の知識が十分に備わっているから、堂々とできるということでもないのです。自分自身が神様のことを知り尽くし、理解できたから告白できるわけではないのです。むしろ、逆なのです。神様があなたのことを知っていてくださり、あなたの存在を受けとめてくれているという信頼から来る告白なのです。あなたが私にしてくださったこと、私と関わってくださるということを信じて告白するのです。

 この盲人であった方の告白はここにあります。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」私は目が見えなかった。それは真実であるということ。同時に今は見えるようになったという真実があるということです。

 真実という意味では、原因や理由はわからないものです。なぜ見えなくなったのか、なぜ自分がこんな目に遭うのか。主イエスはそうならないような安全な道を私たちに提供しているわけではないのです。けがや病、不幸とは無縁な理想の世界に私たちを導いていかれるのではないのです。それらが起こりえる現実世界にあり、暗闇にしか思えない出来事の中で、光をもたらしていかれるのです。暗闇の原因や理由を延々と語るのではなく、その暗闇をも照らす光、あなたの新しい道という目的を主イエスは照らしていくのです。今は見える、今は神様の恵みが見える、これがこの人の告白であり、開かれた目で見えているものです。肉眼で見えないから、神様が特別に憐れんで、特別な世界をこの人に見せているのではないのです。この人は本当の自分を主イエスに見させていただき、自分の存在、自分の命のありかを、主イエスに見出すことができたのです。

 主イエスが伝道を開始した時の目的の言葉を聞いてください。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(4:16~21)」聖書の言葉、御言葉を通してなされる神の業は実現したと主は言われました。見えなかったが、今は見える。この人の言葉はこの主イエスの言葉に対する恵みの応答であり、告白です。その聖書の言葉は他のなにものでもない、この私、私のために実現されたというのです。この私のために、この私を憐れみ、愛してくださるために、神の業は実現したのです。

 主イエスの十字架と復活とによって、この業は福音として明らかになってまいります。暗闇にあった私が今は見える。神の光を通して見える恵みが見えてくるのです。だから罪に打ちひしがれ、自分を卑下することはないのです。その暗闇にあって、神様の方から私たちの暗闇の只中に来て下さり、そこに光をもたらして、私たちを光の子として、キリストのもとにあって、私たちを導いてくださるからです。今日の第2日課でパウロは言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。そして、私たちがキリストの光を照らす」(5:8~11)以前には暗闇だった。暗闇と無関係ではない現実の闇がありますが、今は主に結ばれて光となっている。闇を知り、そして光の輝きを知る者とされたのです。この真の光へと私たちは導かれているのです。光の子として歩みなさい。光の子として、キリストという光を世に証しするために歩んでいくのです。この盲人であった人はキリストにある光を見出し、自分の存在のありかを見出しました。自分の存在がこのキリストの光を通して、確かに受け止められている。それがこの人の目が開かれた神様の目的です。その目的が見えるようになったのです。「目の見えなかったわたしが、今は見えるということ」、私たちもこの方に見えるようにと導かれ、暗闇ではなく、光の子として新しい歩みへと遣わされていくのです。今度は私たちがキリストの光とされていくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。