2017年4月2日 四旬節第5主日 「一つに集めるため」

ヨハネによる福音書11章17~53節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 新しい年度を迎えつつ、私たちは四旬節の時を過ごしております。来週の日曜日からはキリストの受難週を迎え、イースターの備えとしてまいります。イースターを深く理解するためにも、私たちはキリストの死を見つめる必要があります。イースターの光は死の闇においてよりいっそう輝き、引き立つからです。今あるものが変わらずそのまま継続するのではなく、それが打ち崩されて、でもそれで終わりではなく、そこから新しい芽が出てくるのです。その新しい芽が出るために、死が訪れます。死が命の引き金となってしまうのが復活の出来事なのです。このキリストの十字架を通して示される死について御言葉から聞き、来るべき復活の喜びを皆さんと共に深く味わいたいと願います。

 それで今日の福音書はラザロの復活物語と言われる箇所ですが、この物語全体を読みますと、ここには復活の出来事だけでなく、実際にここで死なれるわけではありませんが、主イエスの死の物語が挿入されていることに気づかされます。最後の53節で「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」とありますように、主イエスが公権力から命を狙われることになる、その死の決定が下されているのです。前半のラザロの復活の出来事を通して、主イエスの死が決定的なものとなりました。

 全体の構造から見ますと、福音書の日課は17節から53節ですが、この一連の物語は11章1節から12章11節まで続いております。12章の12節からエルサレム入場の物語へと入っていき、主イエスの受難と十字架の死の歩みが本格的に始まっていくのです。ヨハネ福音書は全部で21章ありますが、他の3つの福音書と比べますと、実に主イエスの受難と十字架、復活の物語に半分近くのボリュームを設けていることがわかります。そのちょうど半分のあたりにこのヨハネ福音書のラザロの物語があるのです。

 さて、主イエスの死が決定的となったこのラザロの物語ですが、前半はラザロの復活を通して、命と復活の光がテーマとなっています。きっかけはラザロが病で死にそうなっているところから始まりました。ラザロの姉妹が主イエスに使いを出して、すぐに来て欲しいと頼みます。しかし、その時主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)と言われ、すぐにはラザロのもとに行きませんでした。結局ラザロは死んでしまいますが、姉妹のマルタに「私は復活であり、命である」(11:25)と告げてマルタはその言葉を信じ、泣き叫ぶマリアたちと共にラザロのお墓に行き、「ラザロ、出て来なさい」(11:43)と言って、ラザロを死の淵から呼び起こしました。44節までの話ですが、明らかにここでは復活の命の光が色濃く出ています。神様の栄光、神様の愛の御心が顕にされ、主イエスもご自身を復活であると告げて、命の言葉を語り、その言葉が実現しました。そのような命の光が増し加わっているところに、死の闇が食い込んでくるのです。それが後半の45節からの物語です。今日はこの45節からの物語を中心に聞いてまいりたいと思います。

 45節から主イエスの死が語られ、さらにラザロの兄弟のマリアが12章で高価なナルドの香油が入っている壺を割って、主イエスの足に香油を塗りました。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」(12:7)と主イエスが言われるように、このマリアの行為は主イエスの埋葬を意味しています。つまり、マリアは主イエスがいずれ死に墓に入れられることを受け止めているのです。兄弟のラザロが墓から出てきて喜んだかと思えば、主イエスが墓に入れられていくのです。あんなにラザロの死を泣き叫んでいた彼女が、主イエスの死を理解したが如く、埋葬を先駆けて行うのです。しかし、福音書はこのマリアの行動を単独に扱っているのではなく、マリアよりも先にまず公に主イエスが死の宣告を受けたことを強調しています。

ラザロに起こった復活の奇跡を目撃した人の中でファリサイ派に告げるものがあり、ファリサイ派は祭司長たちと結託し、当時の裁判所にあたる最高法院を招集して、このまま主イエスを野放しにすることはできないと言います。そして48節で「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言って、一見国民のことを思う発言をしていますが、「皆が彼を信じるようになる。」と言っているように、要は自分たちの宗教的な権威が損なわれることを危惧しているのです。その自分たちの立場、権威を守るために目の上のたんこぶである主イエスをなんとかできないものかと、彼らは議論します。そこに祭司長のカイアファという人が来て、「あなたがたは何も分かっていない。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」」(50節)と言います。主イエスを信じる人が増えて、ローマ人から目をつけられる前に、主イエスを殺してしまえば良いではないか。そうすれば、ローマ人から目をつけられず、主イエスを信じる人々、彼らから見れば神様の間違った教えを信じる人もいなくなる。すべて丸く収まるではないかと彼は言います。カイアファたち、宗教権威者は、主イエスの教えを神の教えと信じておらず、また主イエスを待望しているメシア、救い主ではないと断固拒絶しています。思えば、自分たちのメシアとなってくれる方は、自分たちを支配しているローマ人を力で屈服させ、イスラエルに平和をもたらしてくれる救い主ではないかと期待していたわけです。しかし、主イエスはその革命の旗印を掲げるどころか、自分たちが忌み嫌っていた罪人や徴税人、またはやもめと言った、社会的弱者を愛し、あたかも神様の御心は彼らにあるとまで言わんばかりに、自分たちの期待することと真逆のことをしていると映っていました。さらに、安息日であっても、奇跡を行って人々を信じさせ、扇動している戦犯者として映っていたのでしょう。自分たちの自己実現のために人々を利用し、主イエスを亡き者にしようとする企てが「あなたがたに好都合だとは考えないのか。」という彼らの好都合であり、邪魔者は消せばいいという彼らの傲慢さです。彼らの好都合を通して、死の闇が浮き彫りになっているのです。

 このカイアファの発言だけを見れば、それは自分たちの利権を守るための企てとしか見えませんが、福音書は51節で不思議なことを語っているのです。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」(51~52)まず、このカイアファの好都合で自分勝手と思われる言葉が、自分の考えからではなく、大祭司としての預言、つまり神様の御心を表す神様の言葉を語っていると言うのです。人間の自分勝手な言葉を神様の言葉になるというのは驚きとしか言いようがありません。しかし、そこには意図もなく神様の言葉が語られているわけでもないのです。~ために死ぬという、主イエスの死が語られています。死ぬという意味では同じですが、カイアファの好都合さにおける発言は、自分たちが生きながらえるために主イエスを死に葬り去ることであり、国民のためと言いつつ、自分たちの立場、利権を守るための発言です。その根底には彼らの主イエスに対する妬み、憎しみがあるわけです。自分たちの妬み、憎しみを解消するために、表向きは国民のためと言いつつ、本音は自己中心的な考えかたなのです。そうしなければ自分たちは生きていけないという彼らの深い闇があるのです。それに伴って、主イエスを殺そうと企み、主イエスが死ぬことをも闇と捉えています。闇に葬り去り、それで終わりであると。

 されど、まさにそこに神の言葉が介入するのです。人のために死ぬ、人の代わりに死ぬ。それを闇に葬り去るという闇の視点からではなく、人を愛し、人を生かすための死という光の視点から、神様の言葉は主イエスの死を語るのです。自分たちの妬み、憎しみを解消するための死ではなく、そのような心の闇に囚われている自分たちの罪が解放されるために、神様は人間への愛と赦しをもってして、死を遂げられるというのです。神の言葉はこの人間の妬み、憎しみを愛へと変えてしまう驚きを私たちに告げるのです。このことこそ、主イエスの死を通して、復活の命が命としての輝きを帯びてくる神秘なのです。邪魔者である主イエスの死によって自分たちが生きながらえることができる。自分の都合によって死を回避した命がそこにあるのかもしれません。その死から命への流れは一貫して、憎しみや嫉妬を貫いています。今度は自分たちがその死の犠牲になるかもしれないという恐怖や不安を塗り替えるかのように、自分たちの限りのある安定を築こうとします。しかし、神様の言葉による神様の御心は死を通って復活の命へと至るものであり、一貫して神様の愛が貫いているのです。神様の愛が、自分の死を回避したがために、自己保身、自己中心に走る人間の弱さ、もろさをも受け止め、その闇を照らすかのような光となって現れてくるのです。

 自分たちの好都合さにおける死の望みを、主イエスが代わりに引き受けられます。しかし、それは人間の望みを満たすための死ではなく、そのような罪を赦す神様の愛としての死をキリストは迎えるのです。主イエスの死を、そのように愛の業に変えてしまう、神様の力強い言葉が語られ、これが私たちの生きる希望と命の言葉なのです。

 国民のために死ぬ主イエスの死は、あなたを愛し、生かすがための死であって、あなたの妬み、憎しみを解消するためのものではありません。なぜなら、もはやその憎しみや嫉妬に引きずられて、自分たちの立場を確保する必要はないからです。その思いを神様は受け止めてくださるからです。そして、私たちはこのキリストの愛の死における神様の御心によって、ひとつに集められているのです。私たちの様々な想いがありますが、それらはこのキリストの死によって、ひとつとされます。私たちの思惑や自己実現が崩されて、他者と共に生きていくために、キリストは死なれ、私たちに赦しを与えてくださるからです。赦されることによって私たちは共に愛することができるのです。

 こうして、前半のラザロの復活を通して語られるキリストの復活の光と、12章からのマリアの主イエスの死における埋葬の物語が繋がるのです。自分の考えや正義が生きながらえるための命ではなく、それらが崩れて、赦され、新しく示される命の道へと繋がっているからです。繰り返しますが、主イエスの死と復活における一連の出来事は神様の愛が貫いております。だから、私たちはキリストの死を知り、その死の意味を明らかにされて、神様の愛の領域へと足を踏み込んだのです。残りの四旬節の期間、この神様の愛の眼差しの中で、主イエスの受難と十字架の死を深め、イースターに備えてまいりましょう。私たちがひとつとなるゴールはこのキリストにおいて実現いたします。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。