2017年4月9日 受難主日 「立て、行こう」

マタイによる福音書26章36~46節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 受難主日を迎え、いよいよ今週から受難週に入っていきます。この受難主日の福音書の日課は、最後の晩餐、ゲツセマネの祈りを経て、主イエスが逮捕され、十字架につけられていく受難の出来事から、十字架場で死なれるところまでとなっています。今年で言えば、マタイによる福音書26章から27章までと、非常に長い箇所となっています。この六本木教会では今週14日の金曜日に主イエスの死を覚える聖金曜日受苦日日礼拝を執り行いますので、今日の受難主日では主イエスの死に至る受難の箇所からひとつ取り上げて、御言葉を聞き、受難週に備えていきたいと思います。

 それで今回はマタイによる福音書26章36~46節のゲツセマネの祈りから聞いてまいりたいと思います。ゲツセマネと言う園で主イエスがこの地上で最後に祈った有名な物語です。ゲツセマネとは「油しぼり」という意味で、オリーブの木が多数生えている園です。ここには現在教会が建てられているそうです。実は、主イエスがこのゲツセマネの園を訪ねたのは初めてではなく、ここでよく祈られていたそうです。一人で祈っていたのでしょうか、主イエスは祈りを通して、父なる神様とひとつとなっていました。

 ご自身がよく祈っていたこの園で、いよいよご自身の生涯における地上での神様の業を成し遂げる時がきました。それは、最後の晩餐でのユダの裏切りの発覚、弟子全員のつまずき、そしてペトロの離反が予告された直後でした。誰ひとりとして、主イエスの十字架に従うことができないことが明らかになり、皆主イエスを見捨てて、主の下から離れ去ってしまうのです。主イエスが一人残され、孤独を味わいます。そのことが予告された直後に、主イエスは弟子たちを連れて、ゲツセマネの園にやってきました。夜も遅い時間だったのでしょうか、弟子たちは眠気を抑えて、主イエスと共に祈ろうとします。そこで、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(26:38)と言われて、ペトロとゼべダイの子二人、つまり主イエスの変容の出来事を目撃したペトロとヤコブとヨハネの三人を伴います。しかし、主イエスが祈り終えると、この三人も眠りこけていて、ただ一人神様の前で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26:39)と一人で祈られました。私は死ぬばかりに悲しいというのは、この杯をわたしから過ぎ去らせてください、という苦闘の祈りから分かります。この杯というのは、罪人が罪を犯した故に、死ななくてはならない死であり、神様の審判における罪人の死を意味しています。つまり、ただ死ぬことそのものが悲しいというのではなく、罪を犯した罪人として死を迎えなくてはならないという悲しみであり、苦闘です。罪人を救うために、罪人に代わって、自分が罪の死を迎えるということは、その罪のすべてを覆い尽くされるということの悩みであり、苦しみです。真に、罪人を救うには、罪人の罪を全て背負うのですから、その罪から来る死の悲しみや苦しみを全て負わなくてはならないのです。

 ヘブライ人の手紙の中で、大祭司の姿に重ねられている主イエスについて、こういう言葉があります。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」(4:14~5:4)主イエスは罪を犯されなかったから、罪人としての死を迎える必要はないわけです。罪を犯した罪人は、ひとりでその罪を担って、死を迎えるのです。しかし、主イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」、また「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」と言われているように、罪を犯していないけれど、罪人のひとりとして、いやすべての罪人の罪を背負う神の子として、今ここに立っているのです。それらの罪を背負う者として、罪の孤独さにあるわけです。罪の孤独という孤独の闇を背負っているのです。

 なぜ、罪が孤独かというと、それは自分一人が負わなくてはいけない責任だからです。自分が犯した罪は自分がひとりで負わなくてはいけないものであって、他人が負えるものではないのです。それは、その罪における深さ、痛み、苦しみ、弱さは自分自身でしか体験できないことだからです。さらに、その罪の自覚をどこまで抱いているのかということです。どこまで真剣に自分の罪と向き合っているのかということです。おそらくそれは限界があるでしょう。というより、自分が自覚できていないところで、人は罪を犯しているからです。それが自分の中での罪の気づきにおける限界さです。だから、ルターはキリスト者の生涯は悔い改めの生涯であると、95箇条の提題の冒頭で言われるのです。常に罪を告白し、悔い改めて、神様の下に立ち返るのだというのです。

 では、一人で罪を背負う責任ということが、自己責任ということでしょうか。数年前からこの言葉をよく耳にするようになりました。あるニュースの記事で見ましたが、都内では保育園に落ちてしまう子どもが増えているのだと聞きました。少子化で、保育園も増えているのに、なぜ落ちてしまうのかということが話題になっています。そのことに関して、いろいろな原因があるかと思いますが、それは誰の責任かということがよく言われます。国の責任なのか、親の責任なのか。世論は様々ですが、それを親の自己責任だと非難する声もあります。都内がだめなら引っ越せばいいとか、子供を作ったのは自分たち親の決断であるのだから、誰かのせいにするのはお門違いであると。責任を持って、子供を育てあげるべきだと。また、私自身は、2005年に起きたイラクでの日本人人質事件のことを思い起こします。当時私は大学生で、あるお店でアルバイトをしていたのですが、バイト先の休憩室にテレビがあり、そこでそのニュースが流れているのを見ました。それを見ていたパートの人たちが、「全くもって自分勝手だ。危険地帯という勧告を聞いて知っていたはずなのに、自分から入って捕まってしまい、身代金を要求されるなんて。身代金なんて出す必要はないよ。自己責任なんだから」と、そういう会話をしているのを聞きました。確かに自分で決断しことであり、それが失敗や損失を招く事態になったら、それは自分で責任を負わなくてはならないのかもしれません。他の誰かが担えることではないのです。しかし、それは自己責任だと、他人のことを言うのは簡単ですが、自分自身のこととなると、それを認めようとはしたくない自分の姿があります。自分の罪に対する責任はどうするのか、それとも自分にはそんな責任などないと言い切れるのだろうか。それを知っていても、自己責任を背負うというのはたやすいことではありません。背負う内容の大変さも辛いですが、一番辛いのは、それを背負わなくてはいけない自分の孤独があるからではないでしょうか。責任を認めなくてはいけない、認めるからには、一生懸命に償わなくてはいけないと分かりつつも、それを背負っていく事の孤独さに打ちひしがれます。そんな自分の弱さを誰しもが抱いているのではないでしょうか。

 主イエスは今、その罪を背負う孤独さの中にあります。弟子たちは皆眠ってしまい、誰一人、主イエスに寄り添えるものはいませんでした。しかし、主イエスが背負っている罪は、主イエスご自身のものではないのです。主イエスには罪がないからです。罪なきものが、罪あるもののように、悲しみもだえ、苦しんでいるのです。それは誰の罪かというと、ここで眠りかこけている弟子たちであり、この御言葉を聞いている私たちなのです。主イエスは弟子たちの裏切り、つまずきを予告しつつも、その罪を叱責されるのではなく、その罪をご自身が担っているのです。叱責しないというのは、チャラにしたからということではありません。チャラにしたのなら、今ここで苦しみもだえる必要はないのです。その彼らの罪を叱責せず、自分が代わりに一人で担われるのは、実は主イエスが彼らの孤独をも知って受け止めていたからではないでしょうか。ユダもペトロも、ヤコブやヨハネ、他の弟子たち、そして私たちも、皆それぞれに弱さを抱き、背負いきれない責任という重荷を一人で抱えているからです。その孤独さの中にあるからです。その罪の痛みを負い、自分一人で背負うことの苦しさ、孤独を主イエスは知っていてくださるからです。知っていてくださるがために、私たちと同じところに立っていてくださるのです。

 直前でペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。」(26:35)と言いました。彼の言葉に続けて、他の弟子たちも同じことを言ったのでしょう。最後まであなたについていきます。たとえ死ぬことになろうと、従うと決めた以上は、責任を持って、あなたへの信仰を貫きますと誓ったのです。しかし、主イエスはその後、ここゲツセマネで、「心は燃えても、肉体は弱い。」(26:41)と弟子たちに言いました。心と肉体が別々のことを考えているという意味ではなく、その最後までついていきますという一見力強い信仰の強さの中に、信仰の弱さが現れているということです。自分は違う、あのユダと違って、自分は絶対に裏切らない。それで、たとえ死ぬことがあっても。しかし、その一方で、主イエスが十字架に引き渡されていくことの恐怖が募ります。本当にこの人についていって救われるのか、大丈夫なのか。そのことを理解していない彼らの心があり、主イエスはそのことを言っているのです。それが彼らの弱さであり、孤独さなのです。

 けれど、主イエスはその彼らの弱さ、孤独さの中におられるのです。彼らが裏切り、離れていってしまう弱さそのものを取り除かれるのではなく、その弱さを主エスご自身が担って下さるのです。「心は燃えても、肉体は弱い。」お前たちは口ばかりではないか、いざという時には逃げてしまうではないか。その弱さを認めろと責めて、彼らを突き放しているのではないのです。あなたがたは弱い。それは私も十分知っている。その弱さを覆い隠すための信仰の強さを求めているのではなく、その弱さを受け止め、弱いことを知ってほしい。でもそれはみじめではなく、その弱さ、孤独さの中に私の受ける杯が、救いの業となって、あなたがたにもたらされる。それを信じてほしいという彼らへの愛の招きであり、メッセージなのです。その罪の弱さを認め、罪の弱さを担われる方が共にいるのだと。そのことを信じることができるところに、本当の強さがあるのではないでしょうか。何よりも主イエスご自身がその彼らの弱さを身にまとって、御心のままに、御心が行われますようにと祈ってくださるのです。執り成してくださるのです。

 そして弟子たちのところに戻って、言いました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(26:45~46)主イエスが罪人たちのところに引き渡されるその時、彼らは無力なのです。まだ眠っている、そう彼らは眠っているからです。主イエスが引き渡されることを前にして、彼らの信仰は眠っているのです。だから、皆逃去ってしまうのです。でも、主イエスは「立て、行こう。」と言ってくださいました。もうおまえたちは信用ならず、役にも立たないし、どうせ裏切って離れ去ってしまうから、ここにいなさいとは言われないのです。眠っていて、どう考えてもついて来れそうにない弱い彼らに声をかけ、「立ちなさい、行こう」と言ってくださいました。目の前に迫っているのは、主イエスを裏切る者です。そんな裏切り者など怖くないという自信があるわけではないでしょう。そのような勝利の確信を抱いてはいないでしょう。そうではなくて、ここにいる弟子たちも、目の前の裏切り者も、救われる道が整えられた。十字架への道が開かれていく。この十字架の赦しという救いにあなたがたも、また目の前の裏切りも、自己責任の中で孤独を抱える者も、招かれているのだということです。

 立て、行こう。この救いに私はあなたがたを招く。あなたがたの罪故にかけられる十字架の死において、あなたがたは救われる。そして、もう罪を犯すことのない存在に変えられるということではありません。たとえ、また罪を犯してしまい、自分が負わなくてはいけない責任があったとしても、あなたは孤独ではない。そんなあなたの弱さと孤独を主イエスは受け入れてくださり、ご自分のこととしてその罪を担って下さり、執り成して、あなたの人生に最後まで付き合ってくださいます。罪の現実があろうとも、その只中で神様は恵みと祝福をもってして、あなたの歩みを導かれます。だから、立て、行こう。その罪の弱さ、孤独さに打ちひしがれて倒れているのではなく、そこから立ち上がって、いや主によって立ち上げられて、主の十字架の救いを仰ぎ見、その十字架を通して示される神様の赦しの愛が、この私のための愛であるということを噛み締めて、受難週の時を歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。