2017年4月23日 復活後第1主日 「遣わされて生きる」

ヨハネによる福音書20章19~23節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 主イエスの復活の喜びを共に分かち合うことができ、感謝です。主イエスは自分の下を離れ去ってしまった弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼ばれ(マタイ28:10)、その深い愛を向けてくださいました。たとえ、死の力でさえも主イエスによって示された神様の愛から、私たちが引き離されることはないのだということを、主の復活が現しております。主は今も生きておられるから、私たちを愛されているのです。

 ところが、主イエスの復活はそう簡単に弟子たちの喜び、希望の光とはなりませんでした。主イエスの墓が空であったことが知れ渡っている時、弟子たちは復活の喜び、平安の中にあったのではなく、むしろ恐れの只中にありました。自分たちを捕まえようとしているユダヤ人を恐れて、家に鍵をかけて身を潜めていたのです。婦人たちの証言を通して、復活したということは聞いていたでしょう。さらに、ヨハネ福音書では弟子の筆頭格であるペトロも、主イエスの墓に行って、空の墓を目撃しているのです。(ヨハネ20:1~10)しかし、弟子たちにとっては、主イエスの復活の有無ということよりも、恐れが勝っていたということなのです。その彼らの恐れの中心に主イエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架の傷跡を見せて、真に復活したことを彼らに現され、それで彼らは喜びに満ちたというのです。それは差し迫っているユダヤ人の脅威が取り除かれたことくる喜びや平和、平安ではありません。尚、現実にはその恐れの中にあったのだと思います。ここで彼らが得ることができた平和、平安とは何だったのでしょうか。

 この主イエスの言葉はユダヤ社会の日常の挨拶で、神様の祝福を相手に伝える言葉です。これと同じ言葉を主イエスは他の聖書箇所では「安心して行きなさい」と言っています。現実には安心なんて全くできず、四方八方囲まれている状況です。その恐れの真ん中で、主イエスが弟子たちに平和があるように、安心しなさいと言われるのです。それは、「手とわき腹とをお見せになって」、十字架の死から本当に復活をしたということと、主イエスの方から弟子たちと出会い、関わってくださったことからくる平和なのです。

 主イエスが「手とわき腹とをお見せになって、」主イエスは真に生きて私たちと共にいてくださるという平安から喜びもそうでしょうが、それはまた自分たちが主イエスの下から離れさり、もはや愛される資格のない罪ある者だと思われても仕方なかったのに、主イエスの方から弟子たちのところに来てくださって、復活の姿を見せて、平和があるように、安心しなさいと告げて、自分たちのことを受け止め、愛してくださっているところから来る喜びもあったことでしょう。だから、本当に復活が起こったということだけを弟子たちに伝えているわけではありません。主イエスの復活は、弟子たちの変わることのない愛の関係の中にあるのだということを伝えているのです。

 主イエスは彼らの弱さ、惨めさからくる不完全さを受け入れ、赦し、愛されることによって、彼らの心の扉を開かれたのです。誰にも知られたくない醜い部分を暴露して非難したのではなく、そのままに受け止められたのです。すばらしい弟子たちだと賞賛したわけでもなく、次からはもっと頑張ろうと言って、強くなりなさいと言ったわけでもないのです。弱く、不完全なあなたがたの存在を受け入れ、それがあなたたちであり、そのあなたたちと私は共にいて、共に生きていくのだという主イエスの想いが弟子たちに伝わったのでしょう。そこに弟子たちの平和があり、喜びがあったのだと思います。無論、扉の外にはユダヤ人たちという厳しい現実が待ち受けています。平和とは程遠い状況と言えます。そのような命の保証などないという命なきところに、主イエスは彼らへの赦しをもってして新しい命を与え、新しく彼らを生かしていくのです。

 復活の主イエスが新しく彼らを生かしていく生き方が、赦す者としての新しい生き方です。彼らを新たに生かすために、主イエスは彼らに息を吹きかけられました。これは霊とか風、命とも訳される言葉です。肉体を維持するための命とは異なり、目に見えるものではありませんが、この霊について、かつて主イエスはニコデモという人に次のように言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(3:5~7)この新しく生まれることは、霊によって新しく生まれるということで、肉体の命を指しているのではありません。それが今、主イエスによって吹きかけられている息であり、聖霊と言われている神様のみ力であり、御心です。その御心が「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」ということです。私がとは言われず、あなたがたがと言われるのです。あなたたちが罪の赦しを宣べ伝えていく者として、生きなさいと言われるのです。

 そして主イエスはただあなたがたを遣わすとだけ言われたのではなく、父がわたしをお遣わしになったように、と言われました。遣わされて、自分の力で私の真似をしなさいと言われたのではないのです。ようするに、主イエスが父なる神様の業を私たちに向けられているのと同じように、弟子たちや私たちも神様の業を行っていくということです。マタイによる福音書の山上の説教で主イエスはこう言われます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)神様の業とは完全な業です。そんな完全であられる神様の真似なんかとてもじゃないが、できるわけがないと思うでしょう。しかし、この天の父の完全さとは、私たち人間が考える完全さ、この世の価値観における完全さではありません。例えば名誉があり、お金があり、権力があり、また失敗せず成功だけして、弱さを全く持っていないということの完全さという意味ではありません。むしろ、そういった私たちの弱さや、失敗、惨めさ、そのような不完全さを知って、受け止められるという愛における完全さのことを言っているのです。それは自分が知って受け止めている以上に、天の父なる神様が知っていてくださり、それを受け止めてくださっている。その弱さや不完全さを裁くのではなく、赦すことによって生かそうとされる愛における完全さということです。それが天の父なる神様の完全さなのです。そして、私たちもそのように完全な者となりなさい、完全な神様の業を行っていくと言われているのは、私たちも自分自身の弱さや不完全さを神様によって受け止められ、愛されていることを知り、他者の弱さや不完全さを知って、受け止め、赦していくということではないでしょうか。それは自分や他者の罪を見逃すという意味ではなく、その罪を戒めつつも裁くのではなく、赦すことによって愛の完全さに生きていくということが赦す者として、新しく生きていくものの歩みです。

 赦す者は、人として慈悲深いとか、寛容の心を持っているという人格面を指しているのではなく、むしろそんな心すら十分に持てていない不完全な自分が赦されていることの喜びを知っている者です。自分が赦される喜びは、自分の弱さや不完全さを誰かが受け止めてくれているところからの平和から来るものでしょう。

 弟子たちはユダヤ人という現実的な恐れの中で、自分たちの惨めさに対する失望からも、家に鍵をかけ、また自分の心にも鍵をかけていたのでしょう。こんな自分を誰が受け止めてくれるのか。あの主イエスはもういない、いてくださらないという悲しみを堪えつつ。そんな思いの中で与えてくれた主イエスの平和とは、そんな自分を受け止め、赦してくださったという平安、安心でした。その平和から来る喜びから、もはや自分自身に鍵をかけて隠れるのではなく、鍵をあけてオープンになれる自分を受け止め、本当の自分を知ることができたのではないかと思います。

 自分からオープンになることは恐ろしくてできないかもしれません。しかし、私からではなく、そんな私のところに来てくださる方がおられる。その方が「平和があるように」と言われるところに、赦しの喜びが告げられているのです。弱くて不完全だから、平和がなく、恐れるままの状況が続くのかもしれません。しかし、主イエスが告げられる平和は、天の父なる神様の愛における完全さであり、あなたへの赦しなのです。あなたへの赦しということを通して、あなたの存在を受け止め、愛される御心です。その御心を知ったものは、霊を吹きかけられて新しい命を与えられ、赦す者として、歩んでいくのです。だから、恐れることなく、赦しを与えてくださる愛の神様に信頼して、恐れの只中を復活の主イエスと共に安心して歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。