2017年4月30日 復活後第2主日 「見ないのに信じる」

ヨハネによる福音書20章24~29節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」弟子のトマスを通して、主イエスは私たちにこう語りかけています。信じるものとして生きなさいと主は招かれます。信仰を持つということでありますが、ルターは信仰とは信頼であると言っています。信頼関係とか、互いに信頼し合うということです。だから信じる者とは、信頼関係にある者と言えます。

 トマスを除く弟子たちは復活の主に出会いました。「あなたがたに平和があるように」と挨拶をされて、弟子たちのかたくなな心を開かれました。そして、彼らは主イエスとの信頼関係を回復し、主イエスを信じて従うものとしての新しい歩みを始めました。そこには、主イエスの方から、弟子たちのことを信頼してくださっている姿があります。しかし、その場にトマスはいませんでした。どうしていなかったのか、いろいろと憶測がされています。たまたまいなかったのでしょうか、弟子たちの近くにいつつも、他の弟子たちと違って、常に一緒にいたわけではなかったのかもしれません。そして、弟子たちがトマスと会った時、その時の体験をトマスに語りますが、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。本当に復活したのなら、十字架場で受けた傷跡があるはずだ。それを見て、その傷に触れてみなければ、到底信じることはできないと言います。彼は復活の証拠が欲しかったわけです。「決して信じない」という彼の心境から、トマスは疑い深いトマスというあだ名が付けられました。疑い深い人間だと言われると、警戒心が強いとか、心を開いてくれない人だとか言われますが、それだけ真剣であったということでもあります。主イエスの復活が本当に起こったのか。弟子たちの目や噂を通してではなく、この目で直接見たかったのではないかと思います。それほどの真剣さ、熱心さがあったのでしょう。決して信じないという声が、無関心から来ていることではないかと思います。

 だから、次の8日後にはトマスも弟子たちと一緒に家にいました。そこにまた復活の主が現れて、平和の挨拶をしてくださり、そしてトマスに言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」この主イエスの言葉は、まさにトマスの願っていたことでした。トマスの思いそのものでした。決して信じないと言ったトマスの心を開く言葉でした。トマスの疑い深い心に、復活の主が現れてくださった。トマスや弟子たち、また私たちが最初から復活の主を信じることができる強い信仰を持っているから、私たちを祝福して招いてくださっているのではなく、むしろ逆で、トマスと同じように、疑い深く、弱い信仰、いやむしろ、からしだね一粒ほどの信仰すら持っていないかもしれない私たちの疑い深さの只中に、復活の主はご自身を顕になさってくだいました。ですから、一連の主の復活物語とは、このトマスの物語だけに限らず、弟子たちの不信仰から来ている物語、弟子たちの不信仰物語でもあるのです。弟子たちやトマス、私たちの不信仰から主の復活物語は始まっているのです。

 主イエスはトマスの疑い深さの只中に現れてくださいました。ただ、弟子たちと同じように、平和の挨拶をして、この復活の主を信じなさいと言っているだけではないのです。それは、私の復活を信じなければ信じないでいい、あなたが疑い深い不信仰の壁を作るなら、もうそれでいい。ということではないということです。弟子たちが信じたのだから、あなたも信じなさいと言っているのではなく、信じる者となるように、主イエスはトマス本人と同じところに立たれて、向き合ってくださっているのです。

 ここでトマスは主イエスに触れることはありませんでした。主イエスに実際に触れて、復活の証拠を実感し、信仰をもったわけではないのです。最初、トマスは実際に触れないと決して信じないと言いました。それは自分の理解の仕方で、主イエスの復活を突き止めるためでした。自分が追い求めて、納得することによって信じようとしたことでした。しかし、その思いを復活の主の方から告げてくださった。疑い深いトマスそのものを信頼してくださる主イエスの愛が先にあって、復活を信じて欲しいと自分が招かれているのです。このことによって、トマスはもはや自分から復活の証拠を掴まないと信じられないという縛りから解放され、復活の主イエスの方から、こんな疑い深い自分を受け入れて信頼してくださっているところに、主の復活の姿を見出したのです。だから、もはや触れるまでもなく、私の主よ、私の神よと言って、主イエスを信じることができたのです。私の主よ、私の神よというのは、ただ神様が復活をも遂げる全能の神様であり、超次元的な只中におられるということではなく、この不信仰でしかない私という存在を受け止めて、信頼してくださる主、私の神であり、私と共にいてくださる神様なのです。この信仰告白の言葉は、後の使徒信条などの信仰告白の土台となる言葉ですが、これはもはや私の存在は、あなたがあって、私が存在している。あなたからの信頼があって、私はあなたに告白することができるという意味を持つのです。だから、トマスは自分で納得して主の復活を信じるようになったのではなく、納得のできない疑い深い自分の存在が受け止められたところに、主の復活を信じることができたのです。

 だから、もはや復活の主イエスに触れることはないのです。自分が触れて確かめないと納得できないという自分への信頼から、主イエスへの信頼、信仰へと変えられて行ったのです。だから、触れることはもはや意味を成さなくなったのです。疑い深いという自分信頼から神信頼へと変えられていった。これがトマスに向けられた主イエスの復活物語であり、私たちもこのトマスの信仰に続いていくのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ15章14節でこう言います。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」キリストが復活しなければ、全ては無駄であると。ようするにないわけです。キリストの復活によって、私たちは信じるものとなるように招かれているのです。復活によって、信仰が与えられたのです。

 また、弟子の一人であるペトロに、主イエスはかつてこう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)この直後にペトロは主イエスの元から離れていきます。ペトロもまた、主を信頼することができず、主の十字架に従うことができなかったのです。しかし、主イエスは「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とも言われ、ペトロが復活の主によって立ち直ることを約束されているのです。初代教会のリーダー的存在であったペトロでさえも、自分の努力では信じることができず、立ち直ることができなかったのです。

 けれど、信仰がなくならないようにと、祈ってくださっている主が共にいてくださいます。そのように私たちも自分や他者のために祈ることがあります。信仰がなくならないように、あの人の信仰生活をお守りくださいと。でも、それはまた、私たちが祈る以上に、主イエスがそのように祈っていてくださる。主イエスが私たちの信仰を支え、助けてくださっているのです。信仰があるから、自分はたくましく生きていける。立派な人生を送り、立派な信仰生活を送っていけるというものはないのです。自分一人の信仰をとっても、共にいて支えてくださる方がいる。信仰がなくならないようにと祈ってくださる主は、その祈りを通して、私から離れないように、どんなところにいても、どんな思いを持っていても、私から離れてしまうことを望んではいないという招きの言葉です。

 主イエスの復活は私たちの不信仰物語から始まり、そこから信じるものへと招かれていく、神様から与えてくださる救いの物語なのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。