2017年5月7日 復活後第3主日 「命の声を知っている」

ヨハネによる福音書10章1~16節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 二ヶ月ほど前に、東京スカイツリータウンの中にある墨田水族館に行ってきました。その屋内の中に、大きなプール型の水槽があって、そこにたくさんのペンギンが飼育されていました。マゼランペンギンという種類のペンギンで、アルゼンチンに生息している攻撃的な種類のペンギンだそうです。それだけ、用心深い性格でもあるのでしょう。そのペンギンが30羽くらいいて、餌の時間になるとダイバースーツのような格好した飼育員さんたちが何人か出てこられて、ペンギンたちを集めます。ペンギンたちには、一羽一羽名前があって、飼育員さんたちが一羽一羽を呼びますが、集まってこないで、好き勝手に泳ぎ回っていたり、ぼーっとしているペンギンもいました。一羽一羽の違いを私たち観客にはわかりません。それで、ペンギンたちが集まってきて、飼育員さんたちは餌を与えるのですが、他の飼育員さんがすかさず、何なに(ペンギンの名前)が今食べたということを他の飼育員さんに伝えて、その飼育員さんはメモを取っていきます。まず、名前がわからないと、どのペンギンが食べたかなんてわかりません。餌になかなか食いつけないペンギンには、そのペンギンの側に行って餌を与え、その様子をちくいちメモして、管理していました。その後は、飼育員さんが一羽一羽のペンギンの特徴や性格などを紹介してくださって、同じペンギンでも一羽一羽に愛着がわきました。ペンギンショーでもなんでもなく、飼育されているペンギンの生活がそのまま紹介されているだけですが、ペンギンたちは飼育員さんたちの声を聞き分け、観客の声には振り向きません。飼育員さんたちがどこの扉から入ってくるのかも知っている。名前を呼ばれて、餌を与えられ、健康状態を見てもらっているのです。すごく時間をかけて、全員に餌を与えるわけです。本当に一羽一羽を常に気にかけていないと、務まらない仕事です。ペンギンたちの命は、飼育員さんたちの手にかかっているのです。

 今日の福音書にはペンギンは出てきませんが、羊が出てまいります。出てくると言っても、羊そのものが出てくるわけではなく、主イエスの譬え話の中に出てくるのですが、聖書にはたくさんの羊と羊飼いのお話がでてきます。ユダヤ人の生活に密着していた日常の風景でしょう。羊飼いは一匹一匹の羊を常に気にかけて、彼らの世話をし、時には狼などの敵から彼らを守ります。それは命懸けでもありました。決して楽な仕事ではありません。

 羊たちは囲いの中で生活していました。そこには羊が出入りする門があって、羊飼いは必ずそこを通って、羊たちを外の牧草地に連れ出していきます。ところが、羊飼い以外にも、羊たちを連れ出すものがいるのです。その者たちは門を通らずに、無理やり他のところから入ってくると言います。それらは強盗や盗人であり、自分たちを生かされる羊飼いではありません。自分たちの命を奪う存在です。しかし、羊たちはその声を聞き分けて、彼らにはついていかず、羊飼いの後だけについていきます。その羊飼いの声を、命を与えてくださる声を知っているからです。強盗や盗人には商品の一部にすぎず、当然一匹一匹の名前や特徴もわからなかったでしょう。その者たちは門を通らず、せっかちなやり方で、囲いを超えてやってくるのです。

 そして、主イエスは、自分はその羊の門であり、また羊たちの良き羊飼いであると言われます。羊の門を通って入るものは、その先にある牧草を見つけ、豊かに養われ、救われると言われます。門というのは、その者の命を生かす命へと至る道であり、また敵から守ってくれる砦のようなものです。その門がなければ、自分の命は常に危機に晒されているのです。主イエスはその門であると言われるのです。私は頑丈な門で、決して打ち破られない門ということは言われず、羊の門であると言います。つまり羊のための門、羊を気にかけ、羊を生かされるために、羊たちに開かれた門であるということです。羊たちはこの門から出て、この門に帰ってくるのですが、この門の場所を見失ってしまったら大変です。門の場所を探して、迷いつづけてしまいます。事実、羊は自活能力に乏しく、迷いやすい動物です。門があっても、その門を通るには、手助けが必要なのです。

 けれど、主イエスは羊の門ということだけでなく、自分はまた良き羊飼いである言われました。良いというのは、特別に優れている優秀なという意味ではなく、この良き羊飼いの良いというのは、本物とか真のという意味の言葉です。つまり、自分はあなたたち羊の真の羊飼い、あなたたちに真に命を与え、あなたたちを養い、育むために、羊の門へと導く羊飼いであるということです。そして、この羊飼いは羊たちに豊かに命を与えるために、羊のために命を捨てるというのです。狼などの外敵が襲ってきたとき、羊たちをただ管理するだけの雇い人は逃げてしまい。羊たちの命を守ろうとはしないが、良き羊飼いである主イエスは、羊たちを生かすために、自ら命を捨てると言われるのです。その違いは、羊たちを気にかけているかいないかの違いです。

 先程も言いましたが、羊飼いは確かに命をかけて、命を捨てるかのようにして、羊たちを守っていました。雇い人だけでなく、実際に自分たちの羊を所有して、世話をし、守っていた羊飼いものです。外敵から羊たちを守っていたのです。そのために失われる羊飼いの命もあったでしょう。しかし、ここで言われる主イエスの良き羊飼いとして、豊かに命を与えてくださる命とは何でしょうか。目に見える外敵や危機から救ってくれるための命の豊かさということなのでしょうか。牧草地を与え、肉体的な命を与え、住むところを与えてくださるという豊かさなのでしょうか。そうしてくださるから、主イエスは良き羊飼いなのでしょうか。

 今日の詩篇交読は詩篇23でしたが、ここにも羊飼いのことが書かれています。その冒頭の一節にはこう書かれています。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」私が何も欠けることがない根拠は、主が私の羊飼いであるからだということです。私には何も欠けることがないと言える人がどれだけいるでしょうか。ただ食べるものがあり、お金があり、住むところがあれば、欠けていないと思えるでしょうか。そういう外面的なことだけでなく、内面的なことはどうでしょうか。時に、様々な自分の欠けに嫌気がさして、自分が嫌になり、どこかに心の渇きを覚えてはいないでしょうか。自分は何のために存在しているのか、迷惑ばかりかけて、何もうまく行かず、行き場のない焦る気持ちばかりが出てくる。そういう渇きを覚えることはないでしょうか。その焦る思いから、何とか成功させなくては、何とかして真面目に生きなくてはいけないというプレッシャーがあり、欠けている自分を認めたくはないものです。

 けれど、私には何も欠けることがない。いや本当は、欠けだらけの自分しか実はいない。他の人から見たら、尚更そうかもしれない。しかし、その自分が、何も欠けてはいないのだと、そう言える根拠は、開き直ったという意味ではなく、その自分をありのままに受け止め、心にかけてくださる方がおられるからです。その方が、私の良き羊飼いとなってくださる。自分を導いてくれるこの世の様々な羊飼いはいっぱいいるでしょう。その羊飼いは自分を良い方向へと導いてくれるかと思います。けれど、この私そのものの羊飼いとなってくれるものは何か。私の命、私の人生そのものを担って下さる羊飼いとは誰か。それが私の存在に声をかけ、私を気にかけ、共に歩んでくださる方であり、良き羊飼いである主イエスご自身なのです。私には何も欠けることがない、いや現実には欠けだらけではないか、乏しく、貧しいではないかと思うかもしれない。それが、私には何も欠けることがないという豊かさの中に置かれる自分がいる。その豊かさの中で安心して生きよと言われる羊飼いが共にいてくださるのです。

 この私が、あなたが豊かになるために、その豊かさの命に与るために、主は命を捨てられるのです。パウロはⅡコリント8章9節でこう言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」主が貧しくなられたのは、私たちが豊かになるためです。豊かになったから、もう一人で何でもできるようになるということではなく、この豊かさとは、主イエスにある豊かさであり、主イエスという良き羊飼いから与えられる命です。

 また、貧しくなったから、もう羊飼いとして導くことはできないということではありません。私には何も欠けることがない、その豊かさの根拠は、やはり主が私の羊飼いであり、私を気にかけてくださる主の豊かさから来ているものだからです。主は豊かであるが故に、私たちを豊かにすることができる。その豊かさの源はやはり主イエスにあるのです。

 良き羊飼いである主イエスは、私はあなたの羊飼いであると言われ、あなたを導きます。欠けだらけの自分がいるかもしれませんが、確かに主イエスの群れの中にあなたという羊はいるのです。あなたに声をかけ、あなたを気にかけ、命を豊かに与えてくださいます。あなたという存在そのものが、主の豊かさを反映させているのです。健康でなくなったら、お金がなくなったら、仕事がなくなったら、失敗ばかりしていたら、貧しく、みすぼらしいと思うかもしれない。でも本当に貧しいのは、自分という存在が気にかけてもらえないことなのです。こんな自分だから気にかけてもらえる、こんな自分だから気にかけてもらえないと考えてしまう。でも、主イエスは、その人生の時々にあなたに声をかけ、あなたを気にかけています。時に厳しく、試練をもってして語りかけることもあるでしょう。しかし、それを通してでも、あなたを気にかけ、愛し、あなたへの愛を全うしたいのです。そのために、命をもかけられて、あなたを気にかけ豊かにしてくださいます。この豊かさの中にあなたの居場所はあるのです。そこにいていいのです。だから、この主が与えてくださる命の豊かさに喜びをもってして、共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。