2017年5月28日 昇天主日 「心の目を開いて」

ルカによる福音書24章44~53節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 もうすっかり草木が芽吹く新緑の季節となりました。道を歩きながら周りの景色を見ていますと、木々に葉がお茂り、「ああ生きているんだな」と純粋に生命感を感じます。そのように生命の鼓動を身近に感じるこの時に、私たちは今日主イエスの昇天を覚える昇天主日の礼拝に招かれました。主イエスが天に昇って行かれた時の様子を「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」と聖書は伝えています。天というのは神様の住まうところです。神様に属するところだと言ってもいいかもしれません。そこに主イエスは昇って行かれた。それが彼ら、弟子たちのもとを離れていった、すなわちこの地上での別れがあったということです。主イエスの姿が見えなくなりました。しかし、その後「弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあります。別れであるはずなのに、悲しんでいたのではなく、喜んでいたというのは不思議なことです。

 主イエスは復活して40日間弟子たちと共にいたと使徒言行録には書いてあります。復活してすぐに天に昇って行かれたわけではありません。この40日間、復活の主イエスは弟子たちに自分は十字架の死から復活したという神様の物語を告げられました。復活の主イエスは婦人たちに現れ、クレオパともう一人の弟子に現れ、そしてペトロたちに現れました。主イエスと一緒にエマオの途上を歩き、聖書の言葉を聞き、食事を共にしたクレオパともう一人の弟子はその時の体験をこう語ります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。心は燃えていた、それほどまでに主イエスが語る聖書の言葉は衝撃だった。自分たちの知っている期待していたメシアという救い主の物語は、十字架という死をもってして終わったかと思っていたのに、そんな自分たちの知っている物語とは全く違って、主イエスの語るメシアの物語は、その続きがある。死んで終わったのではない、死んで復活し、そのことによって神様の救いが完成したのだと言われたからです。まさに目からうろこ、神様の救いの物語はここから始まったと言わんばかりに主イエスは語るのです。そして、今度は弟子たちにも現れてくださいました。その時、弟子たちは大変うろたえます。幽霊ではないのかと。つまり、そこに生きている主イエスの姿を見ることはできませんでした。そこで主イエスは彼らに手と足をお見せになって、彼らの前で魚を食べました。そして、44節でこう言われます。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」モーセの律法と預言者の書と詩編というのは、旧約聖書のことです。その聖書のことを悟らせるために、彼らの心の目を開かれました。悟るというのは理解する、受け止めるという意味で、ただ知識として知ったということではありません。聖書の知識なら、ユダヤ人の弟子たちにとっては、子供の時から聖書を読み聞かされているわけですから、その内容も暗記していたほどに詳しかったことでしょう。聖書の知識はいっぱいです。さらに弟子たちはずっと主イエスと共にいて、その教えを聞いていたのです。聖書の知識も物語も知っている。ああ、あの物語は、何書に書かれていることかと、自然に出てきたのだと思います。

 主イエスはなぜ彼らに聖書を悟らせたのか、それが46節からこう書かれているからです。「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」つまり、弟子たちが証人となるためです。証言するものとなるためだからです。知識として蓄えておくものではなくて、その出来事を体験して、それを運んでいくためです。それは聖書の出来事に彼らの人生が重ねられていくということです。そして、その聖書の心は主イエスの十字架と復活を通して示されている罪の赦しの救いであるということです。罪の赦しを得させる悔い改めが起こるということです。悔い改めというのは、方法転換という意味ですが、それは心が変わるということです。聖書にその救いの出来事が記されている。そのことを悟って欲しい。悟ってもらうために、心を開き、向きを変えて神様の方に向かって欲しいということです。

 マタイによる福音書の中に山上の説教という主イエスの説教があります。その中の6章25節から30節でこういう言葉があります。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」有名な思い煩うなと言われた主イエスの説教です。何を食べようか何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むものです。自分でそれらをちゃんと獲得して、生きていかなくてはいけないという私たちの現実の歩みがあります。知識の問題ではありません。生きるために、日々私たちが身近に体験していることであり、死活問題です。そのことについて、私たちの悩みは尽きず、思い悩むものです。その私たちの思いを、心の向きを変えさせるような視点に主イエスは招きます。空の鳥をよく見なさいと。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。この鳥は、自分の力で生きているのではなく、天の父によって養っていただき、そこに命があるのです。鳥は怠け者に見えるかもしれません。他者に迷惑ばかりかけている存在に思えます。ところが、この天の父はこの鳥を養って下さっている。そこに知識も理屈もないのです。この鳥ですら、神様は養ってくださっているのに、あなたがたはどうなのか。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないということはないかもしれない。けれど、自分もまた誰かに迷惑をかけ、時には傷つけてしまい、罪を犯しているのだと思います。生きるということはその繰り返しかもしれません。誰にも迷惑をかけず、私は生きていますということを言える人がいるでしょうか。根本には他人のことなど気にかけることもできないくらいに、自分のことで精一杯なのかもしれません。野の花も然り。働きもせず、紡ぎもしない。でも、 栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。ちゃんと育ててくださっているという神様の養いがあるのです。

 空の鳥も野の花も、ただ神様から命を与えられ、神様によって生かされているということです。鳥を見なさい、野の花を見なさい、そのように主イエスは私たちの心を方向転換させて、空の鳥や野の花を生かされている神様の愛に気づかせようと声をかけてくださいます。天の父なる神様によって養われている、そこに自分を生かされる命のありかがあるということです。その天の父なる神様の方に、心をむけてほしい。あなたたちはそれほどに大切で、天の父なる神様と繋がっているのだから、その神様の恵みを信じて生きていってほしい。そして、その恵みを伝えていってほしい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。また働きもせず、紡ぎもしない。神様の目から見れば、この私もそういう姿に映っているのだと思います。そうやって迷惑ばかりかけて、罪の姿があるのかもしれません。自分の力ではなく、真に自分を生かして下さる方が自分の人生の背後におられるのだということを、聖書の御言葉を通して、悟るということです。主イエスは他の箇所でこうも言われています。私が来たのは。正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであると。あなたはそのままに招かれて、神様から養われているのだという喜びを受け止めたい。そのために私たちは、私たちを招いてくださる主イエスの声を聞き、心を自分にではなく、天の神様の方に向けて、方向転換して、天が与えてくださる命に生きてまいりましょう。

 主イエスは昇天されて、私たちの目から見えなくなりますが、神様の御心を悟るために、心の目を開かれた弟子たちは、もはや目に見えるか見えないかということに拘ることなく、天からの養いによって、自分たちを根本的に支えてくださることを悟ったのです。そのことが明らかになったのが、主イエスの昇天の出来事です。天の命の内にあって、あなたがたが生かされるようにと、主イエスは祝福を与え続けてくださっています。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。