2017年6月4日 聖霊降臨祭「渇きを癒す霊」

ヨハネによる福音書7章37~39節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 皆様、ペンテコステおめでとうございます。約束の聖霊が与えられた恵みに感謝いたします。この聖霊降臨の中心は聖霊に満たされた弟子たちの口を通して、様々な言語で「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:11)と人々が聞いたように、自分の国の言葉で神様の救いの業、つまり福音を聞くことができたということです。これは弟子たちがバイリンガルになったということではなく、全世界の様々な言語を用いて、唯一の神様の救いの業を全世界の人々が聞いたという出来事です。自分の日常の言葉で神様の救いを知ることができる、つまり全ての人がその場で、そのあなたの立ち位置の只中で神様に招かれているのです。

 使徒言行録はこの後、教会の歴史を描いてまいりますが、それは単に建物を意味しているわけではなく、この神の偉大な業を聖霊によって明らかとされ、そのことを伝えていく、宣教していく人々が集まった群れが教会です。だから、教会はこの聖霊によって建てられ、また単なる人の集まりではなく、神の偉大な業を伝えていく共同体なのです。そしてこの共同体の頭は主イエスキリストです。教会がまたキリストの体であると言われるのはそのためです。このキリストの体に連なるものが、キリスト者であり、宣教していく者たちなのです。聖霊によって神の偉大な業、すなわち主イエスキリストによって顕された十字架と復活という救いの業が伝えられ、私たちへの恵みとなっているのです。

 私たち一人ひとりが教会に招かれたのも、この聖霊の働きであり、導きです。一人一人様々な理由やきっかけがあったかと思いますが、それらの自分の出来事を通して、全ての人が招かれているのです。それは聖霊を通して、神様が私たち一人一人のことを受け止めてくださっているということです。だから正当な理由やきっかけを作る必要は全くないのです。自分がどうあろうと、神様が受け止めてくださり、いつでも招いていてくださるからです。だから安心して、キリストの体である教会に来てくださっていいのです。

 その神様の招きの言葉を、今日の福音書で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という主イエスの言葉を通して私たちは聞きました。喉が渇けば、喉を潤すように、主イエスが私たちの渇きを潤してくださると言います。そして続けてこう言われます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」主イエスが与えてくださる水を信じて飲むものは、その人の内にだけ留まらず、その人から川のように水が流れでていくという豊かな命の水を私たちに伝えております。それが霊について、すなわち聖霊の働きによるものだというのです。

 主イエスはなぜここで水の話をされているのか、それが37節に「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」というこの祭りのことと関連があるからです。この祭りとはユダヤ教の三大祝祭の一つである仮庵祭のことです。これは、はるか昔ユダヤの人々がエジプトから脱出した際に、住む土地をもたず40年間荒野という作物や水が満足に取れない地域を旅していた時に遡ります。彼らは定住の土地がないので、家を建てられません。そこで人々は一週間ごとに仮小屋を建てて、過ごしていたそうです。その生活の中で神様は人々に必要な食料や水を与えました。その時の苦悩と恵みを忘れないようにと、伝統的に行われている祭りです。

 それで、主イエスの時代には、この祭りの終わり日が最も盛大に祝われていたそうです。この終わりの日に何をしていたのかと言うと、朝神殿の礼拝を司る祭司がシロアムの池というヨハネ福音書9章に出てくる池に行き、そこに人々も集まっていきます。そこで祭司は手にしている豪華な桶でその池の水を汲み取ります。それは神様が荒野での仮小屋での生活の中で水を与えてくださったことを記念することなのですが、おそらく、その様子を見ていた人々も感極まって、歓呼の声を上げたのでしょう。そして汲み上げた水を持って祭司と人々はエルサレム神殿に行き、神殿の祭壇に水を注ぎます。そこでも、人々は声を上げて喜びに満ちていたことでしょう。最も盛大に祝われるとは、この喜びから来ているのだと思います。この水によって自分たちの先祖は生きながらえることができた。今の自分があるのは、この水のおかげであり、この水を今も与えてくださる神様の恵みであると。そして、これはまた水を求める祈りでもあったということです。今日のように、蛇口をひねれば水が出るという時代ではありませんし、まして荒野という水源が身近にある場所でもありません。水がなければ渇きは満たされません。その渇きを十分に経験し、人々は切に水を求めて神様に祈ったことでしょう。自分たちの渇き、すなわち命に関わることだからです。

 祭司が水を汲み取り、水を注ぐ、その一番盛り上がっているまさにその時、主イエスは大声で叫ばれたのです。渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。と。そこには人々の興奮した歓呼の声があったかと思います。がやがやとした中で、主イエスは誰にでも聞こるように言われたのです。あなたがたの渇きを満たす命の水はここにある。もはや、その目に見える水だけに頼らなくていい。あなたたちの肉体的な渇きだけを満たし、また一時的に満たされるような水に限らず、私はあなたがたの内から流れであるような生きた命の水をあなたたちに与える。永遠の渇かぬ水を与えようと言われたのです。主イエスが心の奥底にある人々の渇きを知っておられ、それを満たされるために叫ばれました。象徴的な水の姿ではなく、決定的にリアルにあなたがたの渇きを癒す水がここにあるのだと。

 そして、この水が「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。その人の内からとありますから、主イエスから与えられた人が、その人だけに留まらず、その人を通して、またそのキリストの命の水が溢れ出てきて、その水を与えていかれるというのです。その人もまたキリストの水によって満たされ、それは他の人に流れ出て行くほどの恵みを与えるということです。シロアムの池やエルサレム神殿における水の流れに限定されたものではない、キリストを通して与えられた水が、その人から流れ出ていくほどの恵みがここで語られているのです。キリストの命の水が流れていく、自らがその器とされ、その水を全世界の人に運んでいくのです。それがキリストを伝えるキリスト者と言われるものです。

 ただ、この命の水の働きについて聖書はこう言っています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」この命の水とはこの霊のことであり、聖霊のことです。キリストが与えてくださるこの命の水が、今日のペンテコステで与えられた聖霊なのです。目には直接見えない水ですが、この水は確かに生きている。生きて流れ出ている。それはまず、招かれたあなたに与えられている。あなたの渇きを癒し、さらにはあなたを器として、聖霊に働きによってこの水は運ばれていくのです。

 この六本木ルーテル教会は来年70周年を迎えますが、この教会の前進は目黒マルティンルーテル教会と麻布聖泉ルーテル教会です。目黒マルティンルーテル教会の建物は、箱型の形をしていたそうです。箱舟をイメージしたものでしょう。水の上を移動していくあのノアの箱舟をイメージします。そして、麻布聖泉ルーテル教会の聖泉とは、聖なる泉と書きます。この名称の通り、麻布の地は、名水の地として、泉が湧き出ている地域であったと言われています。その名残となっている場所がいくつかあり、六本木ヒルズの中にある毛利庭園はその一つです。その地域性から、聖泉と名付けられたそうです。今では高層ビルが立ち並び、人々が賑わい、明かりが途絶えることのない近代的な発展を遂げたこの六本木の地、麻生の地でありますが、この六本木ルーテル教会の前進の教会は共に水に関わりのある建物と名称であり、意義深いものです。そして、今はあまり泉が湧き出るということを直接目にはしませんが、教会は建物や名称の由来にのみ留まらず、真の生きた水を提供していく場であるということを私たちは恵みとしていただき、そのことを覚えたいと思うのです。

 キリストは全ての人に叫ばれています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」この叫び声を教会が発信していくのです。水も食べ物も、すぐに手にはいりますが、私たちの渇きは深いものです。多様化する価値観の中で、本当に様々な渇きがあり、それを満たそうと迷っている人々の姿があります。その人々に教会は生きた水を提供していくのです。

 神の偉大な業を、私たちは自分たちの日常の言葉で聞くことができます。それはまた、聖霊の働きを通して、自分たちの言葉で聞き、伝えていくことができるのです。形式ばった格調高い言葉や祈りをする必要はありません。あなた自身の力量や知恵によって、神の偉大な業が伝えられていくわけではないからです。聖霊の恵みによって、この私が器とされ、この私をそのままに用いられて、一人一人の賜物を用いて、神の偉大な業は宣べ伝えられていき、それがキリストの叫び声となるのです。その声に全ての人が招かれているのです。あなたは招かれているのだと。

 この声に招かれ、渇きを癒す聖霊によって立ち起こされ、自分の言葉で、自分のできることで、祈りつつ、それがキリストの生きた水となるように、宣べ伝えていきましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。