2017年6月11日 三位一体主日 「終わりなき信頼関係」

マタイによる福音書28章16~20節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 今日は三位一体主日の礼拝に招かれています。主イエスが「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と言われているように、三位一体とはこの父と子と聖霊なる唯一の神様のことであります。この名という言葉は単数形でありますから、父、子、聖霊の三つの名前を持つ神様ということでもなく、神様が三人いるわけでもありません。三位一体の三位とは、三つの面を持つということですが、三つの働きをされるということです。その具体的な内容は、私たちが毎週の礼拝の中で告白している使徒信条または二ケア信条の中に記されています。

 キリスト教の教会とはどの教派であろうと、この父と子と聖霊の名による唯一の神様を信じている共同体です。教理や立場が違っても、これは全教会の共通理解です。私が聖餐式の配餐の時に、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けている方は、どの教派にも限らず主の聖餐に与ることができますと言っているのはそのためです。

 この後、教会の中で三位一体論という神学が形成されていくのですが、教会はこの三位一体の神様をどのように信仰告白していくのかということに神経を注いできました。教理的な難しい面もあるのですが、この三位一体主日礼拝の中で私たちが受け止めたいことは、この三位一体の神様が世の終わりまで私たちと共にいてくださるということです。三位一体論を理解することができたからそのことを実感できるということではなく、神様の方から近づいてきてくださって、私たち一人ひとりを愛し、赦し、力づけてくださっていることを覚え、受け止めたいのです。

 共にいるというメッセージはインマヌエル、神我らと共におられるという意味です。この言葉はマタイ福音書の最初に出てきます。クリスマス物語に登場するヨセフが天使から告げられた神様のメッセージです。(マタイ1:23)マタイ福音書はインマヌエルというメッセージから始まって、インマヌエルで終わるのです。この神様の愛における喜びが一貫されている福音書です。ここに神様と私たちの終わりなき信頼関係が現されているのです。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスのメッセージは観念的なものではなく、本当に神様が生きて共にいて下さるという約束の言葉なのです。主が共におられるというのは、主は生きておられると告白していることと同じです。この生きてお働きくださっている父、子、聖霊の名における神様を全世界の人々に宣べ伝えていきなさいと、主は弟子たちを、そして私たちを遣わされていくのです。私たちの新しい一週間は、この主イエスの祝福によって日常に遣わされ、歩みが始まっていくのです。

 今日の福音書はこのような主イエスの宣教の大使命と言われる箇所です。弟子たちはこの主イエスの祝福を受けるために、ガリラヤのある山に集まりました。この山の名前はわかりませんが、おそらくこの山はかつて主イエスが山の上で人々に説教されたあの山と同じところではないかと言われています。マタイ福音書5章から7章における山上の説教と言われている箇所のことです。その山に弟子たちは登って行き、復活の主イエスに出会いました。喜びもあったことでしょうが、聖書はこの時、弟子たちはひれ伏したと記しています。ひれ伏すというのは、畏れ敬うということですが、これはようするに礼拝をしたということです。弟子たちは復活の主イエスに招かれて礼拝をしているのです。ところが、その中に疑う者もいたというのです。主イエスの復活を疑うという弟子たちの心境は復活物語の中心です。

 疑う者もいたというのは、その弟子たちの中の何人かがそうであったのかしれません。この疑うという言葉はディスタゾーというギリシャ語の言葉ですが、これと同じ言葉がマタイ福音書14章31節で使われています。この箇所は、弟子のペトロが水の上を歩いて、主イエスのもとに行く場面ですが、主イエスにこちらに来なさいと言われたペトロは、途中で強い風に気付いて怖くなり、溺れて沈みかけてしまいます。そこで主イエスがすぐに手を伸ばして彼を引き上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに言いました。この疑ったのかという言葉がディスタゾーです。ここには根っから主イエスを拒絶し、信じない不信仰なペトロという姿よりも、主イエスを信じつつも、そこに疑いが起こってしまうペトロの信仰の弱さが現されています。信じたいのだけれど、本当に信じて良いのか。または信じつつも、どこかに恐れがあり、疑いをもってしまう信仰の薄さ、弱さ。それがディスタゾーという言葉にあって、他の疑うという言葉とは少し性格が違います。

 復活の主に出会い、ひれ伏している弟子たちの何人かが疑っている者なのかもしれませんが、この共同体の中には信じているものもいれば、疑っている者もおり、それはあの人だと限定できるものではありません。あのペトロの姿と重ねるのであれば、信じつつも疑ってしまう信仰の弱さを誰しもが持っていて、完璧な信仰を持っている人はいないのではないでしょうか。ここにいる信じている者、疑っている者のふたつの面を私たちは持っており、それが私たちの本来の姿ではないかと思います。

 しかし、この後、主イエスは信じている者も疑っている者も区別することなく、こう言われます。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」近寄ってきた。主イエスの方から近づいてきてくださったのです。それはあの湖で、疑い、溺れかけているペトロにすぐに手を差し伸べてくれた主イエスのように、主イエスの方から近づいて来られ、その場にいる弟子たち全員に主イエスの業を授け、彼らを遣わしていかれるのです。少しでも疑っているあなたは失格だとは言われないのです。すばらしい信仰をもっているあなたは適任だと言われるわけでもないのです。主イエスの方から近づいてきてくださる、主イエスの方から私たちに関係をもってくださるのです。

 ルターは信仰ということについてこう言っています。「信仰は私たちの内における神の業である。・・・信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。」信仰とは自分の中に思いや信念ではなくて、神様との生きた関係であると言えるでしょう。自分の中で信じている、疑っているという思いは誰しもが持ちつつも、それで神様と自分との関係が揺れ動くものではないのです。自分の中では揺れ動いても、そんな自分の只中に主イエスの方から近づいてきてくださり、私たちと生きた関係を持って下さるのです。この恵みを私たちがいただき、それに応答して生きていくのがキリスト者です。ですから、信仰とは自分自身の中で解決できることではなくて、神様からの働きかけを通して、示されていくものです。そこには神様なぜですか、なぜこんなことをなされるのですかという思いもあって、その只中を神様は共にいて歩んでくださるのです。

 先週の木曜日、ある姉妹のお見舞いに行きました。圧迫骨折をされて、腰に強い痛みを覚えて、その痛みに悩んでおられました。姉妹は「神様はなぜこの痛みを私に与えるのでしょうか」と、真剣な眼差しで私に言っておられました。相当な痛みで辛いものですが、それは自分がその痛みを経験しないとわかりません。痛みのないものがどんな慰めの言葉をかけても、相手には通じないかもしれません。しかし、姉妹は、「これは神様がしばらくは動かないでじっとしていなさいというメッセージなのかもしれませんね」と言われていました。そして、最後にお祈りをした後に、先生、両手で握手をして、ハグをしてくださいと言われ、握手とハグをして帰りました。その痛みがある肉体に触れて、それで直接私自身がその痛みを覚えたわけではありませんが、この痛みの中に、ご自分の痛みとされる主イエスキリストが共におられて、この姉妹と共に生きておられるのではないかと思えました。神は耐えられない試練を私たちに与えませんというヘブライ書の言葉がありますが、それはこの痛みの只中、試練の只中にこそ主が共にいて、その重荷を共に負って下さるという信頼から来る慰めの言葉になります。

 私たちの痛み、困難、試練の只中を共に生きられる方がおられます。世の終わりまで、常に私たちと共にあると約束してくださっています。この主の憐れみと慈しみの中に私たちの歩みはあるのです。そのキリストが全ての人に宣べ伝えよと言われて、弟子たちを、私たちをキリストを伝えていく者として、遣わされていきます。キリストは生きているのだと、私たちが証ししていくのです。共に喜び、共に泣き、共に祈り、キリストの光を伝えてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。