2017年6月25日 聖霊降臨後第3主日 「権威ある者の教え」

マタイによる福音書7章15~29節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 マタイによる福音書5章から7章までの山上の説教と呼ばれる最後の箇所から御言葉を聞きました。一番最後の28節から29節にこう書いてあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」主イエスの言葉には権威があったというのです。それは律法学者とは違う新しい神の教えを聞いたという意味ではありません。主イエスの言葉も、律法学者が教えている神様の掟である律法を軸とした教えです。それに変わりはありません。しかし、人々が非常に驚きを見せたほどに、両者には違いがあったというのです。主イエスの権威とは何か、それは主イエスが神様の言葉そのものであるということです。同じ山上の説教の中にあるマタイによる福音書5章17節で主イエスはこう言われます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」神様の教えである律法、その御言葉を完成させる、すなわち成し遂げるために主イエスは来られたというのです。そのために主イエスご自身が神様の言葉となって、人々の前に現れたのです。ここに主イエスの権威があります。主イエスの存在と神様の言葉はひとつであるということなのです。

 主イエスはご自身が神様の御言葉を完成させるという視点から、私たちに山上の説教における神様の教えを語っておられます。神様の教えを道徳として受け止め、真面目に生きなさいと言っているのではありません。敵を愛しなさいとか、腹を立ててはならないとか、私たち人間にはとても難しい教えです。しかし、それは無理だから、あなたがたは守らなくていいと言っているわけでもないのです。主イエスがこの教えである神様の言葉を、その存在をもってして完成してくださる時、主イエスの言葉には権威があり、神様の言葉が生きているのです。そして私たちは、この山上の説教を聞いて、これを道徳的に周知徹底して守りきることを教えられているのではなく、御言葉を完成してくださる主イエスと繋がり、主イエスを自分の中に迎え入れることが大切なのです。主イエスと繋がり、共に生きていくのです。

 この主イエスの視点から今日の御言葉を聞いていきますと、15節から27節までの箇所で様々なことが語られています。偽預言者のこと、実を結ぶこと、天の父の御心を行う者、そして家と土台の話。偽預言者、悪い実であろうと実を結ぶもの、御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った者というのは、目に見える姿では、非常に力があり、魅力的な存在ばかりです。人々の目には本当に素晴らしい働きをしている者に映っていたことでしょう。ところが、彼らは羊の皮を身にまとった貪欲な狼であり、良い木に見えて、悪い実を結んだ悪い木であり、悪霊を追い出す力を持ちつつも、それは天の父の御心に叶っていない働きであるとして、主イエスはこれらの力を退けます。

 そして、これらの力に警戒せよと言われます。両者の違いは神様の御心である神様の言葉に土台を据えているか、神様の名を利用して、自分の力や知恵に誇示して、自分に土台を据えているかということでしょう。要は神様が中心なのか、自分が中心なのかということです。

 この両者の違いを描きつつ、24節からの家と土台の話では賢いものと愚かなものが出てきます。岩の上に自分の家を建てた人は賢い人で、砂の上に家を建てた人は愚かな人として紹介されています。その賢さ、愚かさが明らかになるのは、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った時です。結果は一目瞭然ですが、問題なのは、この大嵐が来るまでは、賢い人も愚かな人も区別がつかないということです。敢えて地盤の弱い土地に家を建てようとは思わないでしょうが、そのような大嵐が来ることも予測できないものです。この賢いという言葉は思慮深いとか、見るべきものをちゃんと見ているという意味の言葉です。それは見た目の地盤の強さや岩を見ることのできる賢さではなくて、主イエスのこれらの言葉を聞いて行う者であるという賢さです。これらの言葉を聞いて何を見つめ行っている賢さか、それは天の父の御心を見つめる賢さです。自分の賢さを見つめるのではなく、天の賢さ、天の知恵を見つめ、そこに生きることです。また、岩は旧約聖書の時代から、その硬い物質から、神様に例えられてきました。詩篇にはたくさんそれを表す歌があります。見た目の頑丈さ、華やかさ、また自分の賢さではなく、天の父なる神様を見つめる賢さ、その賢さに生きるものが主イエスのこれらの言葉を聞いて行う者なのです。そして、先ほど主イエスご自身がこの神様の言葉となられたと言いました。ですから、この岩を土台とするというのは、主イエスを、キリストを土台とする生き方のことです。建てられる家というのは、私たちの姿に重ねられるでしょう。この家は何を基礎にして、何を土台として建てられているのかということにかかってきます。それは私たちの人生における土台のことです。土台がしっかりしていれば、たとえ揺さぶられたとしても、倒れることはないのです。

 賢い者が建てた家は揺さぶられたでしょうが、最後は倒れませんでした。それはその家の頑丈さではなく、土台がしっかりしているからです。土台が支えてくださっているからです。家であるこの私の土台となってくださり、結びついてくださっているキリストの恵みがその家をしっかりと支えるのです。

 先日木曜日の聖書を分かち合う会の中で、ある人がこういう質問をされました。地獄に落ちないようにと主イエスに祈ることが大切だと教えられたことがありますが、それでも不安です。どうすれば良いのでしょうかと。確かに、聖書の中には地獄を表す言葉がいくつかあります。具体的にどういうところかはわかりませんが、死の世界と結びついているものです。死の恐怖を前にして、私たちは深い恐れを抱きます。この嵐を死の前兆として受け止めるならば、それは尚更切実な問題であり、地獄という恐怖を思い浮かべ、答えを求めるでしょう。死の世界に対して、私たち人間の知恵では答えが出せないのです。

 ただ、この神の言葉を完成させるキリストの生涯は十字架の道を歩まれるご生涯であります。十字架の死を迎えるために、歩んでいかれるのです。死を避けて、死の世界とは無縁の命の世界に生きられる方ではないのです。この嵐の只中を歩んで行かれるのです。そして十字架にかかり死なれますが、それで終わったわけではありません。十字架の死によって倒されたのではないのです。十字架の死の真っ只中を通って、復活の命をもたらしたのです。死に直面しながらも、死が最終的な答えではなく、最終的な答えは復活でした。だから、倒れないのです。このキリストを土台にすえるものは、たとえ嵐という死の力に揺さぶられようとも、このキリストが私たちの土台となってくださり、私たちは倒されないのです。このキリストを土台とし、委ねるところに、命に至る死からの突破口があるのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ15章55節から58節でこう言います。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」キリストは死を通って死に勝利され、私たちの人生の土台となってくださいます。だから、主イエスキリストを土台として、主に結ばれる人生の労苦は無駄ではないのです。嵐の只中にあるかもしれませんが、主イエスを土台として動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励むことができるのです。

 このキリストがあなたを根底から支え、あなたを導きます。あなたが揺さぶられても、この土台は倒れません。あなたの人生を確かなものとします。この土台における信頼を確かなものとし、この土台をひとりじめするのではなく、この土台を人々に紹介し、人々を招く主の業に励み、主イエスキリストの権威の内に、共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。