2017年7月9日 聖霊降臨後第5主日「失われたところへ神は赴く」

マタイによる福音書9章35~10章15節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 先週7月2日は講壇奉仕として、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校のチャプレンである河田優先生にお越しいただき、礼拝の説教と午後に講演をしていただきました。感謝です。この日、河田先生と昼食を共にしている時に、河田先生から神学校と神学生の現状とアピールをしていただきました。神学校でも働きを担ってくださっている先生から直接お話を聞けたのは非常に貴重な時でありましたし、より教会が神学校と連携して、献身者を送りだすことができるようにと、その使命を携えていることの心構えが備えられた時であったかと思います。そして、今年から神学校では9月22日に神学校のオープンキャンパスを開催し、神学校の授業と神学生の生活を体験するという企画がもたらされます。多くの人がこのプログラムに関心を持ち、参加していただければと思います。

 今日の福音書の中で主イエスは弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」この主イエスの言葉は、今申し上げました献身者が掘り起こされるようにと祈り願い、そのことをアピールするときに、よく聞く御言葉だと思います。働き手が少ない。この言葉自体は、神学校だけではなく、いろんな業界で聞く言葉ですが、それはまた、主イエスが御言葉を伝え、伝道し、そして主イエスに従った者も少なかったというのです。ただそれは、収穫は多いが働き手が少ない、と言われるように収穫は多いのです。この豊かな収穫に対して、刈り入れる者が少ない。この収穫を存分に生かすために、働き手を必要とするのです。

 この収穫をもたらしたのは、収穫の主です。働き手の力ではありません。ですから、この豊かな収穫をもたらした収穫の主がより豊かな方であると言えるでしょう。その方がなさる業が豊かなのです。主イエスがここで言われる収穫とは、神様の御言葉における御業です。神様の御業における収穫の豊かさです。働き手はこの豊かさの中に生き、この収穫を広めていくのです。それが主の弟子であり、教会であり、そして牧会者です。神様の御業、御言葉が豊かであり、働き手そのものの豊かさではないのです。働き手、すなわち献身者が少ないと今日の教会の中で嘆く私たちは、まずこの収穫の多さに目を向けたいのです。豊かな神様の御言葉に聞き従っていきたいのです。私たちはついこの収穫の多さに気づけないでいるのではないでしょうか。目に見える人間の働き、成果だけに目を奪われてしまってはいないでしょうか。働き手どころか、収穫もあまりない、いやほとんどないではないかと思っていることはないでしょうか。働き手が少ないから収穫も少ないということではないのです。収穫の多さ、豊かさ、そこに現されている神様の御業は豊かであり、私たちはそのことを信頼していくのです。そして、働き手を送ってくださるのも、収穫の主である神様です。だから、願いなさいと主イエスは言われるのです。

 この収穫の多さ、豊かさにおける神様の御業、御言葉は主イエスにおいて現されています。だから、次の10章で主イエスは十二使徒を選び、遣われていくのです。主イエスの弟子として、この収穫の豊かさを伝えていくのです。キリストを伝えていくのです。皆、この豊かさに与ってほしいという収穫の主の思いが込められています。

 主イエスがこの豊かさを語られたきっかけは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ことからでした。羊という動物が群衆に当てはめて語られていますが、ただ羊そのものが弱く、打ちひしがれているということ言っているのではなく、飼い主のいない羊というのがそういう有様であると言います。彼らが社会的に抑圧されたり、貧しかったりすること自体の弱さだけではありません。羊は羊ですが、飼い主がいないのです。飼い主という羊飼い、羊飼いという羊を導き、羊を養う者がいないことの悲惨さです。

 羊飼いがおらず、自分を導いてくれるものがいない。自分を満たしくれるものがいない乾きからくる弱さともろさです。また、いつ貪欲な狼が襲ってきて、自分たちが食べられてしまうか、そのような命の危険性の中にあるということです。主イエスは群衆、人々の姿の中に、そのような迷いの内にある羊の姿を見出しました。見た目にはわからなくても、人々の心の奥底にある悩み、不安、闇、そういうものを見出したのでしょう。自分を導き、養ってくれる羊飼いが見えず、失ってしまっている。故に、弱り果て、打ちひしがれている姿がある。現代の私たちが生きていく上で、様々なものを背負っている姿と変わらないかと思います。

 そこで主イエスはどうされたか。私こそあなたがたを導く真の羊飼いであるとすぐにそこで言われたのではありません。もちろん、ヨハネ福音書には私は良い羊飼いであるとご自身が言われているように(ヨハネ10:11)、主イエスこそ真の良き羊飼いです。命懸けで羊を守ってくださる羊飼いであり、羊はその養いの中にある平安のうちに生かされます。ただ、主イエスは私こそがあなたがたを導く羊飼いだから、これからは私の後に従いなさい、付いてきなさいとだけ言われたのではないのです。叱咤激励して、羊たちを導いていったわけではないのです。私についていけないものはだめだと言われた方ではないのです。

 主イエスはその群衆を見て、憐れまれたのです。憐れみを向けられたのです。憐れみとは同情のことではなく、元の言葉の意味はらわたが痛むということです。はらわたが痛むほどに、主イエスはその群衆の痛みを、ご自分の痛みとされたのです。群衆とはほど遠い、上の立場から私についてきなさいと言われた、または関わられたのではなく、群衆の傍らに、群衆の只中にその御身を置かれたのです。主イエスの方から、彼らのもとに来られ、その只中で共に生きていくという姿勢を貫かれたのです。それが十字架の死に至るまで続く、真の羊飼いである主イエスのご生涯です。ご自身の命をかけて、全てを投げ打って、群衆と共に、私たちひとりひとりと共に生きていこうとされるのです。あなたの痛み、労苦は私の痛みであり、労苦でもあると。喜びもあり、辛いこともあるけれど、あなたは一人ではない。飼い主のいない羊のようにさ迷い続け、自分の力で羊飼いを見つけなくてはいけないというひとり旅ではない。主イエスの方から、あなたを探し、あなたを見出してくださる。あなたの一歩一歩に主エスは傍らにおられるのです。それが主の憐れみからくる神様の御業であり、収穫の豊かさそのものなのです。それほどにあなたの存在が大切であり、あなたの人生が豊かでありたいと主は願っておられるのです。収穫の豊かさにおける神様の御業とは、この主イエスの憐れみからくる、あなたを生かす御業です。

 パウロはこう言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)あなたが主の憐れみによって豊かになるために、主イエスご自身が貧しくなってくださったのです。神様があたかも神様らしくなくなったかのように貧しくなられ、仕える方としてキリストは私たちの只中に来られました。それほどに深い憐れみを向けてくださり、共に生きてくださるのです。私たちが信頼し、目を向けていく収穫の多さとは、この神様の憐れみからなる、神様の御業なのです。

 この御業を伝えていくために、主イエスは使徒を選ばれ、遣われていきます。その時に、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と主イエスは言われました。主イエスはイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさいと言われます。この失われたという言葉は、「完全に」という言葉と「滅ぼす」という言葉から来ています。つまり、神の民であるイスラエルが最も神様に近いはずであるのに、最も遠く離れ、見失われているのです。そういう状況にあったのです。そこからまず、神様は訪ねていかれるのです。見失われている者を見出し、再び神様の愛と養いの内に生きていけるようにと、キリストは赴かれ、その神様の収穫の豊かさを伝えるために、働き人である使徒達たちを遣わされていきます。そして天の国という神様のご支配は近づいた、と言われます。天の国が特別な場所にあるのではなく、このキリストにおいて、キリストの憐れみにおいて、その恵みの中に生かされていく只中において実現していくのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。