2017年7月16日 聖霊降臨後第6主日「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

マタイによる福音書10章16~33節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 新しく届いた教会だよりの7月号を読んでいて、白根教会の鈴木先生の原稿が目にとまりました。「私の宗教改革」と題して、ご自身が1983年に、まだドイツが東西に分裂していた1983年にドイツに旅行した時の体験から始まって、先生の宗教改革に対する定義、解釈が記されています。そこでルターと革命家のマルクスを取り上げてこう書いてあります。「マルクスは「革命」の代表、ルターは「改革」の代表です。革命は古いものを打ち倒して新しいものを建て上げることです。それに対して改革は古いものを土台にして、新しく再構築することです。」改革は古いものを土台にすることであって、打ち倒すことではない。この大きな違いを語られます。そして、先生は宗教改革のことについてこう言われています。「教会は年月を経て余分なもの、人間の要素を身にいっぱいつけ過ぎてしまいました。ここで悔い改めて(方向を転換して)、神のことばに立ち返り、余分な、人間の要素を削ぎ落して、純粋に神のみを礼拝することです。神のことばに立ち返る時、イエス・キリストが教会の中心に現われてきます。」人間の要素、つまり神様の御言葉による神様の御心やご計画ではなく、人間の願いや人間の計画が教会に身にしみていたと言われます。神様の言葉を、人間の生活に合わせ、辻褄の合う、合理的な言葉として受けていた姿があり、人間に取り入ろうとし、人間の気に入る内容として受け止めたいと思うわけです。そういう人間の要素という不純物が混じっていた神の教えが当時の教会の姿を現していたのかもしれません。そこから、宗教改革は始まり、人間の要素を入れない、純粋な神様の御言葉として、聖書に聞いていくという信仰の姿勢が問われていくこととなりました。御言葉を土台として、信仰の再構築をしていくのです。

 それがキリストが教会の中心であるという私たちの共同体の群れです。今日の聖書に出てくる十二使徒の姿に、今日の教会の姿を当てはめるかと思います。彼らは主イエスによっていよいよ遣わされていくのですが、それは「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言われました。なんとも過酷な状況です。狼の中で羊が生きていくことなど誰が望むでしょうか。苦労、困難の連続です。使徒達が遣わされて生きていく環境はそのような状況であると主は言われるのです。

 主イエスは、遣わされていく使徒達を羊に譬えています。その羊が憇う共同体である使徒達の姿がありますが、それは世の荒波から外れた安全な場所ではなく、まさに狼と言う世の荒波の只中に、主イエスは使徒達を遣わされていくというのです。そこで、その只中にあって、羊として生きていくあなたがたは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」と主イエスは言われました。賢さと素直さ、一見矛盾していることを言っておられるように聞こえます。それとも、ある時には、賢く、ある時には素直に生きなさいということを教えておられるのでしょうか。うまく使い分けて、時には狼をしのぐ賢さで狼を追い払い、時には素直に狼に従うということをせよと言っているのでしょうか。

 これは別々のことを言われているのではなく、これはひとつの主イエスの教えであって、切り離せないものです。そして、これは狼に対する賢さや素直さではないのです。先を読むと、この羊のような使徒達は狼のような世の力、世の君主たちから迫害を受けるということが言われていますが、そこには私のためにとか、わたしの名のためにということが言われています。この私とは主イエスのことです。主イエスのために、その名によって迫害を受け、世の人々から憎まれるのです。それを避けて賢さ、素直さによって、狼たちを蹴散らせと言っているのではないのです。ここでいう蛇のような賢さ、鳩のような素直さとは、この主イエス、または神の言葉に対する賢さであり、素直さであります。この素直という言葉は混じりけがないという意味の言葉です。つまり、素直に、純粋に生きるということです。何に対してか、それはキリストに対して、神様の御言葉に対して、純粋に生きていくということです。そこには不純物はないのです。狼のようないかにも目に見える力強いもの、便宜的なものをそこに取り入れないということです。神様の御言葉に素直に、混じりけのないように、そこに離れず立っていくということです。この素直さを土台にして、賢く生きていくのです。

 そして、蛇とは創世記3章に登場するアダムとエバをそそのかしたあの蛇をまず思い浮かべるかと思います。3章1節にはこう書いてあります。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」。これを口語訳聖書で読むと、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった。」と書いてあります。蛇は言葉巧みにエバを誘惑し、その結果アダムとエバは禁断の木の実に手を出して、罪を犯してしまいます。口語訳に記されている蛇の狡猾さが鋭く現れています。そして二人は互いに相手を攻め、責任転嫁をしました。それが原罪と言われる罪の大元となっているのですが、ここには自分の役割を放棄して、人のせいにしていく人間の姿があります。では、蛇のように賢くという賢さは、自分が責任を取らないように賢く立ち回って、その狡猾さをもってして、狼の中に生きていく賢さでしょうか。そして、羊にそのような狡猾さがあるのでしょうか。ルカによる福音書16章にある不正な管理人の譬え話で、主イエスは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」と言われました。狼のようなこの世は光の子、すなわち使徒達、キリスト者よりも賢いのです。しかし、羊である使徒達、キリスト者が狼の群れの中にあって、狼よりも賢くなりなさいと主は言われません。知恵をもってして、狼と張り合いなさいと言われるのではないのです。また、狼に取り繕って、また、狼の力や言葉の前に、心を動かされて、言うがままに身を委ねて生き延びなさいと言われるわけでもないのです。神の言葉に対する素直さと賢さをもってして生きていきなさいと言われるのです。

 ある人が指摘していますが、この蛇の誘惑において、蛇の思うがままに心を動かされ、その結果、人間が責任を転嫁してしまう怠惰な罪があの箇所において見出されると指摘しています。蛇の誘惑に対して妥協するのではなく、その只中にあって、責任をもってこの狼の群れの中で使徒として、神の言葉を伝えていく働きがまた私たちに伝えられているのではないでしょうか。人間の思惑という要素を取り除いて、純粋に混じりけがなく、神様の言葉に従って生きていく。それを狼の群れの中で実践していくとき、狼に対して妥協するわけでなく、狼の群れを拒絶して、自分たちは特別に違う世界に生きていくということではないのです。素直に生きるために、狼の群れを拒絶するのではなく、むしろ、その素直さを土台として、狼の中に賢さをもってして、神の言葉に従って生きていくのです。だから迫害の只中にあって教会は生きてきたのです。

 また23節で「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」と主イエスは言われます。逃げなさいと言われるのです。強くなれ、意地を張れとは言われません。逃げて、他の町に行って、神の言葉に生きて、その御言葉を伝えていきなさいと言われます。その賢さをもちなさいと言われるのです。そして「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」と言われ、使徒達、キリスト者の伝道、宣教の業が完璧に遂行されず、全ての町に伝えることはできないほどの小さいものであるということです。人の子、再臨の主イエスが来られて、完全な救いを成し遂げていかれるのです。使徒達はイスラエルの町々で、また現代の私たち日本ルーテル教団は、LCMSを通して撒かれた福音の種を耕していくために、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」なって、それこそ完璧さからほど遠いけれど、神様から与えられた賜物をそれぞれが用いて、それぞれの地で神の言葉に生き、その恵みに感謝して、日々の歩みを大切にしていくのです。

 詩篇100編にこういう歌があります。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」
私たちは主に養われる羊であり、そこに憇う共同体です。小さくて弱いかもしれない。狼の世界は広大で、検討もつかないほどに、力があり、知恵に満ちている世界です。そして複雑です。しかし、その狼の群れの只中で、全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。と、喜びと感謝の歌を歌いながら、歩んでいくのです。

 なぜそれができるのか、それは私たちが狼の群れの中で、主に養われる羊の群れだからです。主の恵みと慈しみに生きるものたちだからです。苦しみも悲しみも経験し、苦難や困難が続きます。先行きは厳しいです。しかし、私たちは主の養いの内に叫び続けることができるのです。そこからまた新しい歌を主に向かって歌い続けることができるのです。(詩篇98:2)蛇のように賢く、鳩のように素直に、何よりも私たちがまずこの神の言葉によって生かされ、養われる羊の群れ、そこに素直になって生かされつつ、そこを土台として蛇のような賢さをもってして、神の言葉を広め、伝えていくのです。日本ルーテル教団だけではない、全地に生きるすべての羊たちが、主の恵みをこれからも叫びつづけていくのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。