2017年7月23日 聖霊降臨後第7主日「十字架という救いの手段」

マタイによる福音書10章34~42節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 カトリック教会の司祭で、アントニー・デ・メロという方が、多くの黙想を書かれているのですが、その黙想のひとつに次のようなことが書かれています。「愛は盲目と言われるが、そうだろうか。実際には、愛ほどよく目のきくものは地上にない。盲目なのは、愛ではなく執着である。執着とは、自分の幸せのためには何かやだれかが必要だという誤信から生じるしがみつきの状態を言う。」またこの愛についてこういうことも言っています。「交響曲を楽しむには、楽団のあらゆる楽器の音色に敏感でなければならない。愛と呼ばれる状態でいるには、周囲のありとあらゆる物や人の独創性と美しさに敏感でなければならない。気づいてもいないものを愛するなどとは言えない。そして、他の多くを除外して二、三の存在に気づいていると言うのなら、それは愛でも何でもない。愛は、だれひとりとして除外しない。愛は、いのち全体をいだき寄せる。愛は、交響曲全体に耳を傾け、特定の楽器にだけ聞き入るようなことはしない。」(アントニー・デ・メロ著、中谷晴代訳『ひとりきりのとき人は愛することができる』)私たちは愛に悩む存在です。愛は理屈ではないからです。彼は愛そのものは地上、すなわちこの世界全体に目がきくものであり、また交響曲全体に耳を傾けるものである言います。これは、あのパウロが「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。/愛は決して滅びない。」(Ⅰコリント13:4~8)とコリントの手紙で言っていることと重なってくることかと思います。愛そのものは全てのものに開かれ、それは決して滅びることがないわけです。問題なのは、愛する私たち人間の愛、その愛ゆえの執着であるということでしょう。その執着故に、特定の楽器にだけを聞き入るように、特定の人や物だけを特別に愛そうとする姿があります。また、愛着という言葉もあります。人や物への思いを断ち切れないという意味です。それが特定のものに限られ、そこに縛られるわけです。それが原因で自分自身を見失い、盲目になることがあるのではないでしょうか。

 今日の福音書の箇所で、主イエスは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と非常に厳しいことを言っています。この言葉は弟子たちに告げられました。弟子たちが宣教の旅に遣わされる場面で、キリストの弟子として歩んでいくための厳しい心構えが語られています。これらの厳しい言葉は10章の初めから主イエスが語られてきたことですが、今日の箇所は特にその厳しさを増しています。主イエスは平和ではなく、剣をもたらすために来たと言う衝撃がまず私たちの心を揺さぶるのです。

 主イエスは平和の君、平和をもたらす支配者としてこの地上に来られ、平和から遠ざかっている私たちの歩みの中に、真の平和をもたらしてくださるのではないかと思うでしょう。それが平和どころか、争いをそこに生むかのように、剣をもたらすと言われるのです。それは、主イエスの弟子として、主イエスを第1に愛するが故に、引き起こされる剣であるというのです。家族という最も親しい人たちよりも、主イエスを、神様を第1に愛するものが弟子であり、そうでないものは弟子にふさわしくないと言われます。それはあたかも家族をないがしろにしてでも、主イエスを愛し、主イエスに従うことが大事であると言っているように聞こえます。本当にそのような思いを私たちに告げているのでしょうか。

 この10章では、主イエスに従う弟子たちが迫害に会うことが語られています。主イエスに従うが故に起こる迫害です。この迫害と同時に、内部からは主イエスに従うことへの反対者も出てくるということです。それが自分たちにとって身近にいる家族である可能性が高いということでしょう。「わたしは敵対させるために来たからである。」という敵対とは、主イエスを愛し、従うが故に、家族との間にできる亀裂です。

 しかし、聖書は家族をないがしろにしなさいとは教えていません。有名なあのモーセの十戒で「父と母を敬いなさい」と言われているように、むしろ大切にしなさいということを教えているわけです。でもそれは、家族愛を優先させるということではないのです。その限定された人間の愛、家族という特定の楽器にだけ聞き入るようなことではないのです。

 旧約聖書の創世記にヨセフ物語が記されています。12人兄弟の下から2番目の子供として父親のヤコブから溺愛されていましたが、ヨセフは兄たちによってエジプトに売られてしまい、そのことを聞いたヤコブはヨセフが死んだのだと思い、深い悲しみに暮れます。しかし、主がヨセフと共におられて、彼は大臣にまでなります。そして、イスラエルで飢饉が起こり、食料を買いに兄たちがエジプトに行きます。それを知ったヨセフは正体を隠して、兄たちと合い、そこで一番下のベニヤミンという弟をエジプトに連れてきなさいと兄たちに命令します。ベニヤミンを連れてこないともうお前たちとは合わず、食料も売らないと言われてしまいます。その知らせを聞いた父親のヤコブはベニヤミンを溺愛していたので、猛反対するのですが、息子の必死の説得もあって、ようやく決心し、ベニヤミンをエジプトに連れていくことを許しました。その時にヤコブはこう言いました。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(創世記43:13)この言葉は、ヤコブにとって自分が剣に差し貫かれるかのような心境であったでしょう。ベニヤミンは彼にとって、一番大切な愛する家族であり、ヤコブにとっての命そのものであるとも言えます。ヨセフを失っていた彼は今やベニヤミンに愛着していたからです。苦悩の末、ヤコブは神に従う道を選びました。そのことによって、彼はベニヤミンへの溺愛、愛着から立ち直り、信仰者として、一族を導いていくのです。その結果、ヤコブと兄たちはヨセフと再会して和解をし、彼らはエジプトでいっしょに暮らすのです。主がヤコブたちを導き、彼らに報いを与えられました。

 主イエスは38節と39節でこう言われます。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」ここにもふさわしくないという主イエスの言葉が出てきますが、自分の十字架を担うということが言われています。悪いことをした罰としての十字架という意味ではなく、弟子として担っていく各々の十字架です。ヤコブにとっては、ベニヤミンをエジプトに送るということが彼にとっての十字架であったと言えるでしょう。また彼は自分の命と同じくらい愛していたベニヤミンを手放すことによって、信仰者としての新しい命に生きていったのです。

 自分の命を得ようとする者は、それを失うと言われます。ヤコブがベニヤミンを手放したくないという思いにあったのと同じように、私たちも自分の命を手放したいとは思わないでしょう。ただ、ここで「自分の命を得ようとする」私たちの姿があるのだということです。けれども、自分の命を自分で得ようとする、自分自身で自分の命をどうにかできることではないということです。自分自身で自分の命全体を見つめることができないのです。そして、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。と言われます。自分で命を得ようとし、執着するところから解放されなさいと言うのです。解放されたところに、真の命が、主イエスにある真実の命が得られるというのです。それは主イエスを第1に愛し、従っていくところに生きるものの命です。自分が執着するもの、愛着のあるものを手放しなさいと言われます。そうして、真の命を与えてくださっている方の愛に気づきなさいと言われているのではないでしょうか。

 それはヨハネ福音書3章16節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という神の愛から来る私たちへの命のありかです。私たちを滅ぼすためではありません。家族との分裂を引き起こし、その関係を絶たせるために来られたのではないのです。家族愛から来る愛着から解き放ち、それに縛られず、本当の自分の歩みを歩んでいくためです。

 そしてこの私たちへの愛は、主イエスご自身の十字架と復活において明らかにされました。この十字架と復活における愛が、私たちひとりひとりの命をいだき寄せるのです。もはや古い自分、執着において命を得ようとする自分ではなく、主イエスにおいて古い自分を失い、新しい自分が与えられて、自由な愛に生きていく道が示されたのです。それは主イエスが私たちの命となり、愛となってくださったからです。愛は、だれひとりとして除外しない、私たち一人ひとりという楽器を聞いてくださり、私たちの声を聞いてくださるのです。

 主イエスは今、新しいイスラエルとして、弟子たちを遣われていきます。血族や家系に縛られた古い神の共同体を超えて、主イエスを愛し、主イエスに従う神の共同体として、互いに愛し合い、歩んでいくのです。教会もまたこの新しいイスラエルとして、主イエスの十字架と復活という福音に与り、伝統の中に生きていくのではなく、日々新しく語られ、生きておられる主の御言葉に立ちつづけていくのです。時に厳しいことを主は言われますが、その厳しさの中に、主は私たちと共におられます。共にたち続けてくださるのです。どうぞ、主イエスという真の指揮者のもとに、ひとりひとり違う楽器である私たちが、主の愛の音色を奏でてまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。