2017年7月30日 聖霊降臨後第8主日「命の安息」

マタイによる福音書11章25~30節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この主イエスの言葉は私たちに深い慰めと大きな約束を与えてくださる有名な御言葉です。休息を取っているのに、休息になっていない現代の私たちの疲れは深刻です。常に重荷を負っているから、疲れが取れないのです。肉体は回復しても、魂の安息を得られないという経験をされたことがあるでしょう。自分が負う重荷に押しつぶされそうになっている苦しさを感じることがあるかと思います。なんとかして、この重き荷を背負って生きていかなくてはいけない厳しさがあります。そんな私たちに主イエスはこの御言葉を語られました。休ませてあげようと言われます。私たちの魂の危機的な状況にあって、主イエスが憐れみと慈しみを向けてくださっている言葉です。

 かつて、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷状態にあって重労働を課せられ、その苦しみの中にあった時、彼らの叫び声に神様は耳を傾けられて、御心に留められました。出エジプト記の2章23節からこう書いてあります。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出エジプト記2:23~25)出エジプトという神の解放の出来事は、彼らの嘆き、叫び声を聞き、その人々を顧み、御心に留められた神様の憐れみから始まりました。彼らはただ嘆いただけです。うめき苦しんでいただけなのです。本当の安息を得たかった彼らの叫び声から神様は動かれていったのです。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでも主イエスのもとに、神様のもとに来なさい、すなわち叫びなさいと言われます。重荷を背負い、自分の価値を証明し、他者から評価されないと、自分の中に安息はないと考えるかもしれません。自分の価値や周りの評価を私たちは気にしすぎている。そのことをわかっているつもりでも、そうそう私たちは自分の重荷を楽に下ろせる環境を見いだせているのでしょうか。人に好まれたい、人から頼りにされたいという思いがどこかにあり、その期待に応えようとしたり、また自分は他の人と比べて丈夫だから、まだまだ重荷を背負って頑張っていけると思えたりなど、自分で重荷を下ろすタイミングを自分でわかっているつもりでありながら、なかなか下ろすことができないことが返って、大きな重荷になっているのです。

 前にもご紹介したかもしれませんが、クリスチャン作家の曽野綾子さんが、『人間の分際』という本を書かれています。その中で、こう言っています。「私たちは、それぞれに望むことはしますし、望むことについて努力もすると思うのですけれども、しかし、本当の運命を変える力はないでしょう。「分際」という言葉があります。人間の努力が加わらないわけではない。しかし、自分の運命をすべて左右できるということでもない。それが、分けるという字と際という字を書いた「分際」という言葉の意味です。」また他の箇所でこうも言っています。「自ずから人間には、人間としての立場、限度がある、ということです。人間は神と同等のことができるように思ったりしたりする時に、無理が出たり、醜くなったりします。」分際という言葉を、何とかの分際でというように、あまり良い響きの言葉ではないかもしれませんが、自分の本当の運命、歩みを変える力が自分自身の中にあるのかどうか。自分の限度、立場を自分がどのように受け止めているのかということはなかなかわからないものです。ここで主イエスが言われる重荷とは、単に今自分が成さねばならないことに対する重荷や疲れだけでなく、そういう自分自身をしっかりと見つめることができないことを指しているのではないでしょうか。自分はまだ大丈夫、他の人もまだまだ頑張っているから自分も頑張れるし、頑張らなくてはいけないと思ってしまいがちですが、その思いが返って重荷となるのです。

 主イエスが休ませてあげようと言われる前に、こう言っておられます。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」これらのこととは、主イエスの御業であり、そのみ業を通して示されている天の国です。神様の救いの支配下にある状態です。これを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになったと言われます。知恵ある者や賢い者という宗教指導者たちを指します。人間の知恵や賢さによって、天の国が明らかにされ、そこに招かれているのではなく、幼子という知恵なき、いとも小さき存在を表します。主イエスはこの直前に弟子たちには迫害を予告し、悔い改めない町々を叱っています。主イエスの伝道は決して成功したとは言えず、人々に聞き入れてもらなかった背景があったのでしょう。この知恵ある者、賢い者は神様の律法を遵守し、その正しさ、熱心さ、知恵深さによって、救われると思っていました。幼子は律法の知識すらないので、神様の救いからはほど遠いところにあるのだと思われていました。しかし、主イエスはその幼子に天の国を示されたと言います。人間の知恵や熱心さ、正しさによってではなく、幼子のような者が、そのままに神様の子供として迎えられ、神様のものとして導かれていることを示すのです。ただ幼子として、あなたがたが神様のものとして、神様の方からあなたがたと結ぼれようとしていることが御心であり、望みであるのです。それが第1にあって、その神様との関係の中で私たちのなすべき歩みが示されていくのを、知恵あるもの、賢いものはそれを逆に考え、自分たちの知恵と力量で神様に認められ、到達しようとしているのです。そのような宗教的価値観における重荷が人々を苦しめていたのでしょう。安息日の問題ひとつとっても明らかです。安息日は安息なのに、安息日を守るために、安息日にしてはいけないという禁止事項を守ることに目が向いてしまい、本当の安息を得ることができず、心の中でそれが重荷になっているということがありました。安息日は神様と自分との交わりを豊かにし、自分の命の安息を得る恵みの日であって、重荷を下ろす時なのです。

 ただ幼子のような者に天の国を示され、幼子として神様と結ばれることを望みつつ、主イエスは疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。と言われたのです。自分の重荷を主イエスに委ねなさいと言うのです。それが休息です。そうして、期待される自分、まだまだ丈夫である自分という思いを捨てて、神様の安息のもとに立ち止まって、本当の自分をここで知ることが言われているのではないでしょうか。

 そして主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と、真の安らぎを、主イエスの軽い軛を負っていくことを言われます。軛というのは、牛やろばなどの首につけて、鋤、車を引かせるために使われている木製の器具です。ひとつの軛を二匹の動物の首につけて、ふたりで荷を引いていくのです。ひとつの軛を互いに共有し、互いに補い合って、荷を引いていくのです。そうやって互いに助け合い、支えっていくので、ペースは遅くとも、その荷に潰されてしまうことはなく、ちゃんと目的地に向かって歩んでいくのです。自分ひとりで背負っていく重荷ではなく、主イエスの軛を背負い、もはやその重荷をひとり背負っていくのではないということです。自分の重荷を自分自身で立派に背負い続け、そうして神様と他者に自分を認めてもらうのではなく、主イエスの軛を背負って、主イエスの導きのもとにある自分の荷を主イエスと共に背負って歩んでいくのです。それが真の安らぎであると言われます。今日の第1日課であるイザヤ書40章31節には「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあります。自分にではなく、主に望みをおく、主に委ねる人は弱ることも疲れることもない。主イエスの軛を負うとはこういうことです。自分の重荷を下ろして、キリストと出会い、キリストの軛を負って、自分の人生における様々な荷物を主イエスと共に運んでまいりましょう。そして、私たちも互いにキリストの軛を負っていくものとして、互いに補い合いながら、主に望みを抱いて、共に歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。