2017年8月6日 聖霊降臨後第9主日「種は蒔かれ続けている」

マタイによる福音書13章1~9節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 このマタイによる福音書13章には今日の「種を蒔く人」のたとえ話から始まって、毒麦のたとえ話、からし種とパン種のたとえ話、そして畑に宝が隠されている天の国のたとえ話と、いずれも人々の日常生活の風景の中に溶け込んでいる内容が特徴的なたとえ話が続いて語られています。主イエスは彼らのまさにその日常の只中に溶け込んでいくかのように、人々の前でたとえを通して、天の国の話をされたのです。

 しかし、先を読みますと、主イエスはその天の国のことを秘密としています。天国の秘密ということを言われるのです。秘密というのは謎とも訳せます。どうやら、天の国は近くにありつつ、人間の価値観の延長戦上にあるわけではないようです。身近にありつつも、その人間の価値観をひっくりかえす驚きが秘められているのです。それが天の国の神秘であり、御言葉を通して語られる福音の神秘と言えるでしょう。しかし、主イエスが語られる御言葉の土壌は私たちの日常の中にあるのです。主イエスが語られる場所がそのことを具体的に表しているでしょう。

 さて、今日の福音書の「種を蒔く人」のたとえ話から聞いてまいりたいと思います。特に有名なたとえ話でしょう。聞いたことがある方は多いかと思います。しかも、後半にはたとえの説明まで記されています。この種というのは神様の御言葉であり、土地はその御言葉を聞く人の状況を表していると言われています。4つの土地が登場しますが、実を結んだのはその内のひとつで、良い土地に落ちた種だけです。単純計算して四分の一ですが、その実の結び方が実に豊かなものです。これを土地の状況に合わせて、自分は果たしてどのような土地であるのかと考えることがあるかもしれません。そして、自分の土地には神様の言葉を聞くために、邪魔になるもの、障害になるものはあるだろうか。雑草や石や茨、または種を食べてしまう鳥はいないだろうか。それらをちゃんと取り除いた上で、神様の御言葉を聞ける状態に自分はなっているだろうか、そのように整えられて初めて、神様の前に出ることができるのではないか。そのように考えるかもしれません。

 そう考えますと、この種まきは無駄が多すぎることに気づきます。最初から良い土地だけに的を絞って蒔けばいいだけのことです。作物が実りそうにない土地にわざわざ種を蒔く人がいるでしょうか。蒔くにしても、まず耕します。耕して耕して、そしてようやく作物が育ちそうな良い土地になったら、種を蒔くでしょう。手順が違うのです。ここでは、良い土地だから種が蒔かれたという話ではないのです。どのような土地であろうと、種は撒かれ続けているということです。この土地は見込みがあるから種を蒔く、あの人は才能があり、見込みがあるから、あの人だけはお金をかけて立派に育て上げるということではないのです。

 というのも、実はユダヤの農村では、それこそ目に付く良い土地というのはほとんどありませんでした。大体の地域が荒地と言われる場所でした。荒野が広がっているのもそのためです。荒涼とした大地で作物が育ちにくい土地柄です。それで、ユダヤの人々は、まず先に種を蒔きました。ロバや馬などを使って、種を背負わせ、種を蒔かせていったのでしょう。狙いをつけて蒔いたのではなく、それこそ種を落とし続けていったと言ったほうが近いかもしれません。その後で土地を耕していったのです。

 最初に言いましたが、これは彼らにとっても日常の風景です。そのような種まきの現実を聞いて、特に驚きはしなかったでしょう。この種が巻かれないところ、落ちないところはなく、全ての土地がこの種で覆われていることを示しています。種を蒔く人は、土地を気にしたり、選別したりはしません。すべての土地に、それこそすべての人の中に、神様の御言葉が蒔かれているということです。そういう意味で、この種を蒔き続けるということを伝道する、宣教するということと結びつけて語られることが多いのです。種まきをし続けていくこと、あきらめず何度も何度も蒔き続けていく。それはとても大切なことです。しかし、その種の実りということに私たちは縛られてしまうのです。蒔いたからきっとすばらしい実りがあるはずだと。それが目に見えて現れることを期待します。その期待に縛られ、伝道の成功、失敗という量りで図ろうとしてしまうわけです。

 もちろん、無計画に伝道をすればいいという意味ではありません。がむしゃらに活動すればいいということでもありません。この種を蒔く人がその種を落とさない土地はないということが重要です。そして、その種は常に新しく蒔かれ続けているということ、もう自分の土地は実っているから蒔かれる必要はないということではないのです。他ならぬあなたのところにも、今も御言葉の種は蒔かれているということです。それが種を蒔く人の意思なのです。

 蒔かれる土地は様々ですが、蒔かれない土地はありません。既に蒔かれていると思えるところでも新たに蒔かれるのです。そこでこの土地というのは、その時の自分の状況を表していると言いましたが、どのような時にも種は蒔かれています。つまり、人生の片時にも、御言葉が語られていない、すなわち種が蒔かれないということはないのです。御言葉は常に共にあって、私たちを招いているからです。そのように、私たちの身近にあって、共にいてくださる主イエスが、生きた神の言葉として私たちと共にいてくださるからです。見込みがあるから、センスがあるから語られる、共にいるということではないのです。御言葉を通して、主は共にいてくださる、人生の片時も離れていってしまうことはないのです。それが種を蒔く人に表されている主イエスというお方なのです。

 この種を蒔く人の思いについて、パウロの言葉から聞きたいと思います。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」エフェソの信徒への手紙3章18~19節からの御言葉です。種は全ての土地を、すべての人を、そしてひとりひとりの人生を覆い尽くします。それがキリストの愛における支配です。それを愛の広さ、長さ、高さ、深さという人の知識を超えた愛という次元でパウロは表すのです。神の満ちあふれる豊かさのすべてとは、この愛におけるものです。私たちは御言葉を通して示されるこのキリストの愛に覆い尽くされているのです。この愛からはみ出てしまう、覆い尽くさないところはないのです。だから、種を蒔くキリストは、今日もあなたに種を蒔きます。新しい種を蒔いています。そのようにあなたは愛されている。神の愛の領域の中で生かされているのです。石があろうと、雑草があろうと、茨があろうと、そんな人生があったって、神の愛がそれらの境遇から離れてしまうことはないのです。そして、その喜びから実は結ばれるのです。絶えず、私たちのためにも種を蒔いて下さる神の愛に信頼して、歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。