2017年8月13日 聖霊降臨後第10主日「毒麦も育つままに」

マタイによる福音書13章24~35節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 天の国の譬え話が豊富に語られているマタイによる福音書の13章から私たちは御言葉を聞いております。先月も言いましたが、これらの譬え話はいずれも人々の日常生活の風景の中に溶け込んでいる内容が特徴的なたとえ話が続いて語られています。主イエスは彼らのまさにその日常の只中に溶け込んでいくかのように、人々の前でたとえを通して、天の国の話をされたのです。

 さて、今日は前半の毒麦の譬え話から御言葉を聞いてまいりたいと思います。ある人が良い種を畑に蒔きますが、誰もが眠っている間に、良い種が蒔かれた同じ畑にある者が毒麦を蒔いていき、芽が出て実ってみると、麦と一緒に毒麦も現れました。彼らは良い種だけが蒔かれたはずなのに、なぜ毒麦が実るのか、それはきっと敵の仕業に違いないと受け止めます。実際の農村民たちはそのことを経験していたのでしょう。悪意のある者が自分や村の畑に毒物を蒔いていき、損害を与えるという出来事です。主人が敵の仕業に違いないということも、その主人の気持ち、主人の立場を、主イエスの話を聞いている農業者の方は、ああまさにその主人は自分の姿だと重ねて受け止めた方も多くいたかと思います。

 そして、そのままにしておけないので、毒麦を抜きにいって参りますと下僕たちは提案するのですが、主人はその提案を静止します。毒麦を抜くときに、麦まで一緒に抜いてしまうかも知れないから、抜かないで刈り入れの時まで、そのまま育つままにしておきなさいと。そして、刈り入れの時、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れるということが実現するのだと言います。

 麦と毒麦、白か黒かという二択の問題があります。正義と悪の問題と言えばシンプルでしょうか。悪を挫き、正義を貫く。水戸黄門みたいな展開を私たちは期待します。善は救われ、悪は裁かれると。ところが、この主人の畑に、麦と毒麦が混合して存在しているのです。善と悪が存在しています。その二つがあることは明瞭ですが、問題なのは、それが混合して、自分たちでは見分けがつかないということです。毒麦を抜こうとして、麦も一緒に抜けてしまったということも、彼らは経験していたことでしょう。根が絡み合っていて、毒麦を抜いたつもりが、麦まで抜けてしまったということもあったはずです。雑草を抜いていたのに、雑草と間違えて、抜いてはいけないもの草を抜いてしまったという経験は誰しもあるでしょう。

 それでこの毒麦、いわゆる麦角菌という毒性の菌は、最悪それを口にしたもの死に至らしめます。死に至らなくても、失明したり、幻覚症状を引き起こしたりなど、被害は深刻です。刈り入れの時期、すなわち収穫の時期になって、穂が出た時に、それが黒くなっていれば、毒性の菌に侵されている麦です。その見た目から、悪魔の菌と言われたりしていたそうです。だから、毒麦は早々に抜かないと本来は危険ですから、早めに対処しておくというのは、生活の知恵であったはずです。下僕たちの提案は最もなことなのです。多少良い麦が抜けてしまっても、毒麦だけは抜いておかなくてはならないと。長年の農作業の経験から、ある程度は見分けを付けることができたのでしょう。

 しかし、主人の判断は、最初から抜くこと自体に反対なのです。良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないと。それほどまでに、麦と毒麦の区別は自分たちではつかない。いったいどれだけの良い麦をだめにしてしまうのか。その後悔の念のほうが深く残るのではないかと言わんばかりに、主人は下僕たちの提案を静止します。けれど、主人の両方とも育つままにしておきなさいという言葉も、かなり危険なことに聞こえます。悪い芽は早めに摘んでおくと、悪を野放しにするわけにはいかないように、毒麦を野放しにしておくというのはとても危険なことに聞こえるのです。刈り入れの時には毒麦がはっきりと姿を現すから、それまでこの毒麦のような様々な悪の問題、悪の脅威に耐え忍びなさいと言っているようにも聞こえます。確かに、神様の計画に従って、毒麦のような悪に支配されないように、日々の生活を大事にしなさいという教えもあります。あなたの目、あなたの判断では正確に悪の芽を摘むことはできないから、それは神様に委ねなさいと。そういう教えも大事なことです。けれど、この主人の言葉は、良い麦も一緒に抜いてしまうということと、毒麦を含みますが、全ての麦が豊かに成長して実ることの豊かさを私たちに伝えています。

 根が絡み合っていて、良い麦も一緒に抜かれてしまうということは切実です。これは毒麦だ、その形や色具合から、それが判断できる。表面上のものから、それが悪であるということがわかるから、それを取り除こうとする。ところが、悪を退けたつもりが、善をも退けてしまうという結果が生じる。そうしますと、結果的には悪が勝るわけです。毒麦を蒔いていった敵の目的はそこにあるのかと思います。要は、良い麦をだめにすることが大きな目的であって、毒麦だけが生き延びることではないのです。それは人に対しても同じことが言えるでしょう。あの人のああいうところがだめだ、ああいうところは害悪だ、あの性格を直せば良いのにとか、あの癖を直せばいいのになどと言って、その人のバックグランドも知らずに、その事情に介入して、その人を正そうとする。しかし、結果的に、それでその人を殺してしまうこともあるわけです。その人の良いところや、その人の味、個性をも殺してしまい、その人がその人でなくなってしまうのです。それは自分自身に対しても言われていることなのです。だから、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」この主人の言葉は、畑に蒔かれている一つの私という麦に対して語られている言葉であり、麦というあなたの存在に対して語られている言葉なのです。そのあなたの存在が抜き取られようとしている。または、他者の存在を抜きとろうとしてしまうという主人の警告の言葉であるのと同時に、あなたへの慈しみの言葉なのです。審判を下して、白黒はっきりさせることに優って、あなたの存在が欠けてしまうことの主の憐れみがここに優っているのです。そして、両方とも育つままにしなさいと言われます。同じ

 マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこう言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)両方とも育つとか、雨を降らせるとか、主人の思いは、麦と毒麦、正しい人と正しくない人がどうなるということより、実り豊かに育つことの豊かさを第1に私たちに伝えているのです。麦も毒麦も、自分では見分けがつかない自分や他者の存在がある。見た目の毒麦という悪に対してイライラし、それを何とかして取りのけようとする正義の眼差しに優って、見分けが付かなくても、そのあなたが豊かに育っていってほしいという主の愛がひとりひとりに向けられていて、その愛の眼差しが、人間の正義の眼差しに優って、一人一人を生かされるのです。主は殺すことを目的とする方ではなく、生かすことを目的とされる方なのです。

 それで、毒麦の問題、悪の問題を放置しろと私たちに言っているわけではありません。それは戒めなくてはならないことでもあります。それが刈り入れの時に明らかになります。しかし、主の目的は、裁くことが最終的な目的ではなく、赦すことが大きな目的なのです。刈り入れという終末、主の再臨の時がいつくるのかはわかりません。けれど、その前に主イエスは十字架にかかって死なれ、人々の罪を全て担われました。そして、罪の赦しをもたらし、私たちに赦すということを教えられました。私たちの毒麦を、主は担って行かれる方なのです。そのことが私たちに伝えられています。そして、その毒麦の死から、新しい芽が出て、復活の命を私たちに示されました。

 この毒麦によって、あなたの麦が失われることを神様は黙っていません。毒麦を抜いてすっきりすれば、あなたは良い麦になれるという敵の誘惑があります。しかし、毒麦を抜けば、良い麦も抜かれ、あなたという麦は失われるのです。しかし、主人は両方とも育つままにしておきなさいと言われました。よい麦も毒麦も、この主人である神様が全て背負われ、担って下さるということです。毒麦もある自分と他者の存在にうんざりし、しんどいこともたくさんあるでしょう。それによって苦しいことも悲しいこともあります。でも、その時にあっても、主は共にいてくださり、そんな自分に実りを与えてくださる。実ること、生きていることの豊かさを、毒麦がもたらす悪に優って、私たちを豊かに導いてくださるのです。この実りを与えてくださる主の豊かさの只中で、その豊かさに信頼して、歩んでまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。