2017年8月20日 聖霊降臨後第11主日「神様の宝物として」

マタイによる福音書13章44~52節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 天の国の話を聞いた弟子たちに、主イエスは言われます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」あなたがたは天の国について学んだ学者であると言われます。弟子という言葉は、元々は学ぶという言葉から来ています。師から学ぶものが弟子です。だから、弟子であるということは、師から学び続ける者なのです。そして、キリストの弟子というのは、キリスト者であり、キリストの者とされているということと、師であるキリストから学ぶものであるということです。その弟子たちは「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と主イエスは言われます。古いものを退けて、新しいものを取り入れていくという意味ではありません。古いものと新しいものを自由に取り出すことができるのだと言うのです。マタイによる福音書は旧約の実現が主イエスによって現実のものとなっていくことを特に強調している福音書です。主イエスは律法の完成者であると言われました。律法という神様の古い約束が破棄されたのではなく、それが完成するという新しさです。だから古いもの新しいものは別々にあって対立しているのではなく、立体構造になっていると言えるでしょう。それは旧約聖書と新約聖書を通して現されている神様の約束の実現が一貫して語られているのです。天の国のことを学んだ学者は、一貫して語られている神様の御言葉を自由に語ることができ、その自由の中に生きるのが、ここで言う倉から自由に取り出すということです。それが天の国に生きるキリスト者です。

 今日語られている天の国のたとえは、天の国のことを学んだ学者である弟子たちだけに語られています。3つのたとえがあります。一つ目は畑に隠された宝を発見し、それを手に入れるために自分の持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うお話です。銀行などない時代でしたから、昔の人は大切な物や財産を畑に隠して管理していたそうです。ところが、このたとえ話では、埋めた本人がその宝を見つけたのではないのです。土地の所有者ですら、その宝の存在を忘れていたのか、それとも何百年も経っていて忘れ去られていたのか、それはわかりませんが、その宝は埋もれていて、人の目に映ることはありませんでした。見つけた人は喜びながら帰るとありますが、これは「喜びのあまり」という大喜びでした。自分の持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいほどの喜びを抱いているのです。

2つ目のたとえ話は、高価な真珠を見つけた商人が、同じく自分の持ち物をすっかり売り払って、その真珠を手に入れるお話です。この真珠に高価な価値を見出したのは、このある商人でした。それもまた同じく自分の持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいほどの高価な価値、喜びがあったということです。

この宝と真珠にたとえられている天の国は隠されているということです。誰の目にも明らかになることではないと言います。単純に見えるか見えないかというより、それを宝として、高価な真珠として価値を見いだせるかどうかということです。

最後の3つめのたとえは、世の終わりのことをも指して語られています。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚が集まり、良い魚と悪い魚が選り分けられるように、終わりの日にも正しい人と悪い人が天使によって分けられていきます。こういう話を聞くと、私たちは悪い魚、悪い人にならないかどうかと不安になるかと思います。このたとえでははっきりと悪が滅びるということが語られているのです。それが明らかになるのが、世の終わりの時であると言います。自分がそうならないようにするにはどうすれば良いのかと思うかもしれません。そうならないように、自分たちも自分の持ち物をすべて売り払って、神様に捧げなければいけない。そうしないと悪い人として裁かれてしまい、自分は救われないと考えるかもしれません。

しかし、畑を買ったもの、真珠を買ったものは、喜びから自分の持ち物をすっかり売り払い、それを手にするのです。そこに生きようとするのです。その宝と真珠の価値を知り、それらが自分を生かすものであると知っているからです。もうその宝と真珠に出会っているからです。天の国という神様の支配の中に触れているからです。

この喜びのあまり、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと思う価値ある天の国とは一体なんでしょうか。この天の国に生きていくとはどういうことなのでしょうか。

持ち物をすっかり売り払ってでも、ということは、自分の中には何もなくなるわけです。自分自身が所有できるものはないのです。その天の国の宝、真珠に自分の人生を委ねていくと言えるでしょう。

この天の国の宝、真珠について考えている時、星野富弘さんの「命よりも大切なもの」という詩集の言葉を思い出しました。「命より大切なものがあると知った時に生きていく力が与えられた」と星野さんは言われます。またこうも言われます。「いのちというものは、俺とは別にあるんだ。俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ」自分の努力でいのちがあるのではなく、「いのちが一生懸命俺を動かしてくれている」と気づいたと言われています。命というものが自分とは別のところにあり、この命が自分を動かしている。命のありかは自分自身の内にあるのではなく、それは与えられているということです。生きることをあきらめようとしたところで、その命は自分自身でコントロールできるものではないからです。

持ち物をすっかり売り払ってでも、というのは、自分の命をかけていく、命を使っていくということでもありましょう。与えられた命を惜しむのではなく、感謝して、それを使わせていただく。それが天の国という神様の愛のご支配のもとで生きていくものです。

何よりも主イエスがこの世に宿られ、私たちを愛し、命をかけてくださっています。私たちを愛し、私たちの命のありかとなってくださるために、十字架においてその愛を全うし、復活を通して、新しい命を顕にしてくださいました。隠されている天の国の宝、高価な真珠は、この新しいいのちとなってくださるキリストであり、このキリストの内に私たちのいのちが、歩みがあるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。